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洋順毛

天久の名勝「洋順毛」についてです。
2010年に発刊された天久誌から引用します。

天久台病院の南側、泊港を真下に見下ろす上之屋の丘陵地の頂がウエンジュン毛である。
(略)
ここには三つの香炉が西、南、北に向け安置されている。その神々は「金満御嶽」という遠い祖霊神「土帝君」という中国渡来の農業神と沖縄の各地へのお通し遥拝する「国火の神」の三体である。
ここでの「ウマチー」は中国渡来の五穀や畜類への報恩と豊穣報告、国王への治世の感謝、そして野国村へのイモの伝来感謝と方策への予祝としての拝みである。
神々へのお供えが、麦飯のお握り三十八、重箱に酢の物とイモ類であり、大変な量の供物で、これらのものを作るために天久村の遊び組の組織体である東組、中組、西組の三つの組の頭の家で徹夜してつくったという。
またここは十八世紀初頭の具志頭蔡温の儒教行政のきびしい頃、年に一度の女性たちに許された三月遊びの場所であった。小太鼓や三昧(ママ)を持ち出して隣村の泊村の女性たちと賑やかに演を競って遊び興じたところでもあった。ここでは泊村の女性たちが、天久村は樋川バンタであったということである。
天久誌 P264、p265


天久誌の生活と文化の項は面白く興味深いものがありました。
土地の変遷や経過などもビジュアルでまとめられていてとても解りやすいです。しかしただの図付きのにならず丁寧な考証とまとめがされており素晴らしかったです。
次に洋順毛での遥拝について抜き出してみます。

•遥拝一
西の方向にあるのが唐(中国)へのお通し。この香炉は甘藷や甘蔗(イモや砂糖キビ)を沖縄に伝えた唐へ感謝する遙拝所である。
•遥拝二
東の方向にあるのが玉城ミントングスク、受水走水へのお通しの香炉である。この香炉は、沖縄の祖神アマミクの居住地ミントングスクや沖縄の稲作発祥地である受水走水へ感謝する遥拝所である。
遥拝三
北の方向にあるのは今帰仁、野国(現嘉手納町)へのお通しである。この香炉は琉球開闢の御嶽がある今帰仁や芋を沖縄に広めた野国総官の地へ感謝するお通しである。
天久誌 p265
  ※一部編集と強調などおこないました


唐、アマミク、野国総官へそれぞれお通しの香炉があり拝んだということですね。

冒頭で引用したように、
>天久台病院の南側、泊港を真下に見下ろす上之屋の丘陵地の頂がウエンジュン毛である。
病院の南側の高台が洋順毛ですから現在の地図で確認できる広場のような空白が洋順だと思われます。そしての天久前原の南端は上之屋寺原の洋順毛との境になっています。
天久の原名
※ウェンジュン毛について書き足しました(2011.02.10)

参考:天久の原名(西側)
参考:泊後方の森(ムイ)
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真和志北部の橋

元の図はこれです。

荒っぽく書いたので真嘉比の丘が高台になってないとかがありますがとりあえず橋と集落の位置だけ。
最初の図を下敷きに簡略化。

さらに真和志北部以外を塗りつぶし。

上から(現新都心部の4つを除いて)安謝川沿いに安謝橋、名無し(赤田原に架かる)、内間橋、末吉橋です。
下は泊港から泊高橋、中の橋(泊中の橋)、崇元寺橋、蔡温橋、ひめゆり橋、名無し、練兵橋、大道橋、茶湯崎橋、名無し、名無し、名無し(古島の宝口原)。

安謝の原名(西側)

安謝の原名(北側)の続きで安謝集落の南側と西側です。
安謝の原名(西側)

安謝原は安謝集落で集落内の水色の点はクムイです。
義理地原は安謝集落から58号線を挟んで西側の一帯になります。安謝橋から西側は旧海岸線になっていて、図で色を付けてある部分から向こうは埋立地です。
茶色で示してある道は真和志民俗地図にある道で、境界線や旧跡などもすべて民俗地図を参考にしています。
天久潮満原(ウスミチーバル)との境界はギザギザの線になっていてわからなかったのですが、今回の図の下地になっている標高付きの図を見ると高台のライン(緑)とほぼ重なっていることを確認しました。
西原(イリバル)は安謝集落の南です。隣の前原とは道を境界線にしていますが道が定かではありません。
前原は西側を西原との境界道、安謝原との境をメーミチ、カニクグヮーミチからナーチュー毛へ向かう道を前東原との境界にしています。

山後原は集落の後ろ、前原は前方、西原は西側、東原は東で前東原は東原の前方という感じで集落を中心とした土地感覚が原名からうかがえます。
兼久原は河口のカニクですね。

1700年以前の海岸線図では義理地原は海で川沿いの原も水面下です。
このへんは最初の図でも高低差を気にしてみて見てみると水面下だった部分は低地として輪郭があります。

安謝の原名(北側)

安謝北の原名
安謝集落北側の原名です。参考にしたのは真和志民俗地図。
安謝辺りの58号線は拡張されていますが道筋は変わっていません。浦添との協会は安謝川、隣の銘苅とは銘苅川を境にしています。

山後原は安謝集落北側の川沿いに並んでいる三つの原のうち一番西に位置します。この図には表示していませんが58号線を境界として義理地原と接しています。安謝集落と三つの原は一、二、三番毛を境にし、それぞれの毛は各原に属しています。
山後原と港原の境界は安謝集落から三番毛西側を北へ向かう道の延長線上です。
港原は三番毛と二番毛の北側で、東側の兼久原とは安謝集落の一番毛と二番毛の間を北に向かう道を境にしています。
兼久原は銘苅川河口周辺で一番毛を含みます。安謝集落との境目付近に東ノウタキがあり、南側の東原(アガリバル)とはカニクグヮーミチから安岡中学校に向かう道を境界にします。
安謝橋から三つの原を横切ってきたカニクグヮーミチは180度曲がってナーチュー毛に向かいますが、その道が安謝集落と東原の境目です。
東原は兼久原の南側です。
下の図で安謝集落の南にある道がメーミチ(前道)で、そのまま銘苅橋までほぼ直進しますが、その道が前東原との境界になっています。
ナーチュー毛
前東原はカニクグヮーミチが180度曲がってナーチュー毛へ向かう道を前原との境界にします(前原は表示していませんが安謝小学校付近です)。
ナーチュー毛をへだてて天久水溜原、壺川原があり、南側に銘苅直禄原(スグルクバル)があります。
銘苅子墓やスグルクガーがある直禄原は川をへだてて東側に銘苅原があり、銘苅子墓あたりにある銘苅橋で銘苅原に渡れるようになっています。
ちなみに銘苅川には橋が四箇所あり、最北が兼久原(現在位置)、銘苅子のすぐそばの直禄-銘苅・港川間(銘苅橋)、直禄原-銘苅原間(スグルクガーのすぐ南)、直禄原南の銘苅名護松尾原の四箇所です。

確証がない道は破線にしてあり、スグルクガーの位置なども正確でないと思われます。特に前東原南方はかなりいい加減に作図してあります。
スグルクガーは現存していますのでスグルクガー、シグルクガーなどで検索してみて下さい。

天久の原名(西側)

天久の西側の原名(ハルナー)です。
天久の原名
参考にしたのは真和志民俗地図。
上方の赤い線は安謝との境目、南側の赤い線は上之屋との境目です。茶は民俗地図に書かれている道、赤い点は那覇市のサイトに図示された遺跡です。
破線になっている箇所は確証がないラインでイマイチ自信がありませんが大したズレはないかと思われます。

しかし集落跡は自分が考えているのよりも上ですね...
上之屋、天久は集落の上に58号線が出来た上に接収されてしまっているので考えるのが難しいです。今年(2010)天久誌が作られたらしいので詳しいことは読んでから考えます。
最初の図の範囲はだいたい赤い範囲内です。

ナーチュー毛・名護毛(安謝)

字安謝と字天久の境界にあったナーチュー毛と名護毛です。
ナーチュー毛
上のピンクは安謝集落です。正確には58号線の向かい側にも住居はありますが割愛。
黒で囲った部分はナーチュー毛の遺跡です(那覇市のページによる)。薄い黒線で表示した部分は真和志民俗地図で示されたナーチュー毛と名護毛です。
参考に出来るページがあるので紹介しておきます。
ナーチュー毛古墓群:遺跡ウォーカー
http://www.isekiwalker.com/iseki/251065/

民俗地図では丘のような表示をされていますが現代の地図でもわずかに高台になっていて名残が確認できます。名護毛は名残すらもありませんが...
南方に見える丘はほぼ天久集落と同じ範囲ですね。

遺跡ウォーカーではナーチュー毛古墓群の所在地は
>沖縄県那覇市天久水溜原後原/安謝前東原前原
と紹介されています。
58号線から名護毛・ナーチュー毛を境として南側が字天久で、58号線側から後原、水溜原(ミジタマイバル)。同様に北側の字安謝は西原、前原、前東原となります。
水溜原は標高表示のない図だとピンと来なかったんですが天久集落とナーチュー毛の間の土地とわかるとリアリティがあります。

安謝集落に斜めに表示された紫の線は軍用地との境界線です。安謝小学校の南側から集落を一部突っ切るように接収されていました。下の図だと空白地帯が軍用地だったので解りやすいです。
集落北側の数字の表記はそれぞれ一番毛、二番毛、三番毛です。安謝集落は北側をこの毛を境にし、南側は茶色で表示したメーミチが境になっています。
北側の茶色い線はカニクグヮーミチですがカニク小道ですね。集落の北東の銘刈川の河口は安謝兼久原になります。

クーイユ ターイユ

クーイユは鯉、ターイユはフナです。
那覇市史資料編の衣食住の項よりクスイムンのクーイユシンジを引用します。

フナは泡盛を振りかけて泥臭さを抜き、ンジャナ(苦菜)と一緒にゆっくりに出してスープを取る。熱冷ましに良いといわれた。
クーイユシンジ(鯉のスープ)昔から病人用スープとして作られた。鯉の生き血は弱い子供の発育を助けるといわれていた。

フーチバーはリューマチ、解熱に効くといわれ、現在もよく食べられている。
白いか、エビは逆上せのサギグスイに用いられた。
シブイ(冬瓜)は咳止め、利尿に効果があるとされた。
パパイヤは消化剤、催乳剤によい。
海人草は駆虫薬として終戦直後まで利用されていた。
ンジャナは腹痛に、ニンニクは風邪によく、イーチョウバー(ウイキョウ)は咳止めに良いとされた。
那覇市史資料編第二巻中の7、p195(一部編集)


クーイユシンジは鯉の煎じ薬でしょうね。
昔飲まされたことがあるのですが恐ろしく苦くてとんでもない味でした... 生きたまま水から茹でられた鯉が暴れ回り必死で蓋を押さえる婆様を憶えています(笑)。
戦前の那覇の市場でもターイユマチというのがあり売られていたようです。たしか現在でも栄町にもあったような記憶がありますが定かではありません。
那覇市史のクスイムンの項には他にイラブー、蜂の巣、青汁、カタツムリなどがあげられています。
また四つ足は薬という観点からは犬猫もヒージャーと同じようにクスイムンになります。

注意しておきたいのは現在の対症薬としての「薬」ではなく薬膳・滋養としての「クスイ-ムン」ですからそのへんをお間違いなきよう。

古島 2

古島の続きのようなもんです。
古島は大正9年に真嘉比から分離した。三つのヤードゥイから成り立つ。
•宇久増ヤードゥイ(興南高校付近の十軒)
•渡比屋ヤードゥイ(松嶋中学校付近の約十七軒)
•古島小ヤードゥイ(マカン道付近の俗称マカンジャーラ一帯の約二十軒)
那覇市史資料編第二巻中の7、p50


首里系の屋取部落です。那覇市史の別箇所から引用。
真嘉比川沿いの俗称古島小(フルジマグヮー)、渡比屋[ハルガン](トーヒャー)、宇久増(ウクマシ)の三つの小字で6、70戸位で本字真嘉比から大正9年分離独立した屋取り部落であり、明治中期まで首里の御殿、殿内の別荘のようなもの(屋取)があった。
殆どが首里から流れ落ちてきたいわゆる「廃藩のサムライ」たちの作り上げた純粋の農業部落であったが、第一世代のタンメー達は十八史略など朗々と読み上げたりで農耕は「ヒャクソー」のやるものくらいに考えていた。
ハルガン(原神)の拝所は旧真嘉比字(古島も含む)の崇敬の霊地として拝み続けられている。
那覇市史資料編第二巻中の7、p39

古島

東原が渡比屋(トゥーヒャー)です。マカンミチを境にした川側がフルジマグヮー、松島小学校がハルガン毛(ハルガンウタキ)です。
古島と首里末吉はほぼ現在の環状二号を境界にしますが、古島インター近くで末吉川まで飛び出るような形になり、そこでは浦添と接します(ピンクで図示)。
ゼンリン地図などで確認しても昭和のこの辺にはほとんど何もありません。目印もなく特徴もない土地にぽつぽつと家畜小屋や人家があるだけです。

追記:マカン道(西側)
追記:マカン道(北)

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