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三共デパート(新生デパート)

丸国マーケットとなりの三共デパートを施工した会社の動画がありました。

沖縄 大晋建設の歩み 中編
http://www.youtube.com/watch?v=6UFxgYzS65g



左図は動画中の地図を参考にして製作、右の画像はスクリーンショットで作っています。

新生デパートで検索すると画家の方が展示を行っていたことがわかり、少なくとも53年から55年は新生デパートが存在していた事は確かです。
作家略歴・作品
末吉安久|作家紹介|美術館|沖縄県立博物館・美術館

新生デパートにはなみさと商会の高良盛一が理事に入っていました。現在はなみさとになっていますから何らかの関わりがあったのでしょうね。
参考:グダグダ 高良盛一
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終戦後の安謝港

戦後那覇港が米軍港として占拠され、泊港は未整備のため、安謝港が脚光を浴びた。
水深は浅いが、奄美大島から貨物船が往来するようになり、さびしい漁村だった安謝は急速に町として開けてきた。トンネル通り沿いに安謝市場があり、海岸通りには各商店・旅館・劇場・食堂・料亭・飲み屋が軒を連ね、大島産木材、米・家畜取引の中心地となった。
波止場には大島船船取り扱い事務所・安謝港仲仕組合・共進組の海運業や、沖縄造船・松田造船の造船所があり、アプレの港町として栄えた。
戦後の沖縄世相史 p37


1949(昭和24)年の記述ですが、これを了解するためにはすこし注約がいるかもしれません。

岡野区は、 1946年10月、松岡(政保)氏が工務局長時代復興計画をなし、工務関係の資材置き場として旧ブタノール敷地4万5000坪を解放してもらい安謝資材集積所を作り、日本より輸入して来る民用の資材集積を為し、さらに製材工場を造り、規格住宅を各地区に配給するため工作隊二百名以上の作業員が5、60の住宅を持ち、外に合宿所を作って、移住して以来、この工作隊の関係者が次々と移住して今日の部落を形成するようになった。岡野という名称も、岡の上の野原に自然部落が出来たので岡野と称えるようになった。
住吉区は、旧那覇市・垣花・住吉町の人達が、垣花全体が軍に接収され、土地を失ったので、安謝の海岸一帯に部落を作り、移住し、旧名称のまま住吉区と唱えることにしている。
真和志市誌 p275


安謝部落は安謝小学校周辺が本来の部落で58号線から向こう側にはあまり人は住んでいませんでした。
参考:グダグダ 安謝の原名(西側)
参考:グダグダ 安謝のトンネル
最初の引用で示したように那覇港が使えず泊港も造成が済んでいないため那覇の港として脚光を浴びました。また岡野・住吉の両区も戦後すぐに住み始めているため復興は早く、安謝誌にはトンネル通りがいかに賑わっていたかというのが出て来ます。
現在埋め立てられた曙あたりの海岸線には昭和中期の地図でも造船所が確認できます。

原国さんをめぐるヨタ話

有名なブクブクーをたてている写真です。


「那覇市史資料編第二巻中の7」の196ページには「ブクブクーをたてている原国マヅルさん」というキャプションで同じ写真があります。
千原繁子さんのカルテの余白に、ある首里の御殿がぜいたくな生活をしていたために斜陽化して泉崎の原国家に建物を買い取られて移築されてしまうという話があります。王子御殿というので、鴨居が高く柱は槙(まき/チャーギ)の四寸角以上、抜襖も槙で那覇の富豪のどの家よりもすばらしかったと書いています。

沖縄県人事録(大正5年)に原国政勝という名前で高嶺尋常小学校校長の項目があります。一部抜き出してみます。

沖縄県首里区字真和志の士族政輔氏の長男にして、文久3年(1863)那覇区字泉崎に生る。

原国政勝さんは師範学校を明治20年に卒業、首里小学校訓導、南風原尋常小学校訓導兼校長、喜屋武尋常小学校訓導兼校長。明治45年に高嶺尋常高等小学校訓導兼校長となっています。

以下妄想として。
無理矢理な原国繋がりですが、首里士族だと思われる原国政勝さんの身内が那覇の風習であるブクブクーをたてていたのかといわれると微妙です。明治になる5年くらい前に泉崎で生まれている原国政勝さんの親の世代はどの程度那覇に馴染んでいたかというのもわかりません。
千原繁子さんの話に出てきた「王子御殿を買い取った泉崎の原国家」はたぶんこの原国さんで間違いないと思うのです。明治の初めでも高等教育をうけさせることのできる財力をもった家はあまりありませんでしたが、湧田(上泉)は石垣を巡らせた旧家ばかりでした。

原国マヅルさんは「真鶴」さんでしょう。童名の話になるのですが、王子・按司階級だと「真鶴金(マヅルガニ)」、諸士階級だと「真鶴(マヅル)」、百姓だと「鶴(チルー)」になります(参照元:那覇市史資料編第二巻中の7、p568)。
名前についても自分は良く知らないのであれなんですが、原国マヅルさんはこれでいくと王家関係者ではない士族階級ということになります。

この妄想はどうしようないのでここで吐き出してみました。妄想に妄想を重ねたうえにこじつけて何がしたいんだと言われれば何も言えませんし結論もありません(笑)。

新聞記事/統計書

凄いページを見つけたのでご紹介したい。

JunshiのHP
http://osm.a.la9.jp/index.htm


ページ内の「明治大正 琉球新報」と「沖縄県統計書」が凄いです。記事本文や統計書の数字はないですがどのような項目があるかというのが一覧できます。
図書館に行く事のできる人にはこの便利さはわかるんではないでしょうか。

「字誌 一覧」は那覇のところを見てみましたが2005年現在で作成されているようで現在では抜けがあるのが残念。
自分も旧那覇と旧真和志の字誌の一覧は作ってもいいかなと少し考えました。

OCRでの作成にしろスクリプトでの処理にしろ校正は必要なはずです。
大変な作業をされた作者様に敬意を表したいです。

国土交通省の写真について

国土交通省の航空写真について利用約款のページがありました。
というか二次利用なんて無理だろうなと思っていたのでちゃんと見てもいなかったのですが...

国土情報ウェブマッピングシステム
http://w3land.mlit.go.jp/WebGIS/yakkan.html


条文はこうなっています。

第2条 利用上の注意
(3) 国土情報およびそれを利用者が編集・加工して作成した成果物を他に転載、引用等する場合は、利用者は「国土数値情報(○○データ) 国土交通省」「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」「国土画像情報(オルソ化空中写真) 国土交通省」のように出典を明記してください。また、国土数値情報の整備年、国土画像情報の撮影年・撮影場所、ファイル名、編集・加工した場合には編集・加工責任者等の情報についても、できる限り併記してください。
第4条 免責
国土情報の利用目的及び利用方法については、利用者の判断と責任に委ねられており、国土交通省は一切関与いたしません。
第5条 その他
(2) 本利用約款で示す国土情報の利用に関しては、日本法及び本利用約款に準拠するものとします。


出典の表示があれば国土情報の利用方法には関与しないようです。日本法の引用がどうなってるのか、使い方が正しいのかどうかがよくわからないところなのですが。
WikiMediaに対する回答ではこうなってるようです。

http://commons.wikimedia.org/wiki/Template_talk:AerialPhotograph-mlitJP
基本的には、
・提供にあたって、利用制限は定めない
・利用のための申請や登録は求めない
・著作権そのものは放棄しない(国土交通省が保有する)
・利用者の責任において、データを利用していただく
ということになります。
2次配布(再配布)に関しても、我々は特段の制約は設けません。
利用に当たって唯一の制限は、出展の明記です。


この回答でも利用約款と基本的には変わらないと解釈します。その上で日本法でどうなっているのかというのを自分では判断できませんので保留にしたまま上記の回答を根拠にデータを利用させてもらいたいと思います。
「提供にあたって、利用制限は定めない」が「著作権そのものは放棄しない(国土交通省が保有する)」ことを理解し、「利用に当たって唯一の制限は、出展の明記」で条件はクリアされると考え、その条件に沿った利用をする事にします。

アドベンチストメディカルセンター

アドベンチストメディカルセンター(以下メディカルセンター)は上之屋にありました。
下の図でもHousing Areaという文字の右側あたりにあります。
牧港ハウジングエリア

メディカルセンターのページの沿革ではこうなっています。
1959年 3月 アドベンチストメディカルセンター新築移転(那覇市上之屋)
1984年12月 アドベンチストメディカルセンター新築移転(西原町字幸地)

http://www.amc.gr.jp/about/rinen.htm


現在の地図から位置を考えてみます。ちゃんと確かめていないのですが跡地は現在のナハテラスになっていると思われます。

しかしよくわからないとこもあります。以下はナハテラスの前身であるパレスオンザヒルの売却を巡る新聞記事です。

パレスオンザヒル沖縄は1984年の設立。当初は沖縄リージェントホテルとして開業したが、88年に琉球アイランドリゾートへ商号変更して全日空ホテルズの一員となり、昨年6月に現社名に変更した。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-94470-storytopic-86.html


84年12月にメディカルセンターが西原に新築移転してるのにパレスオンザヒルは84年の設立です。病院の建物をそのまま使っているはずはないと思うんですが... 開業は遅かったのかもしれません。

あとついでに書いておけばこの周辺一帯は那覇では珍しいくらいの豪邸がたくさんあります。繁多川にも豪邸がいくつかありますが豪邸が隣接している一帯は珍しいんではないでしょうか。安里側に行けば稲嶺一郎宅や松岡政保宅もあります。

牧港ハウジングエリア

現在の新都心です。
牧港ハウジングエリア牧港ハウジングエリア
左写真はhttp://commons.wikimedia.org/wiki/File:Makiminato_Housing_Area,_Naha.jpg、右図はhttp://okinawa.j-kj.com/bases.htmlから無断拝借しています。
左の写真の出典元は「国土画像情報(カラー空中写真)」 であり、著作権は「国土交通省」にあります。

周囲のゴミゴミした暮らしと対照的で腹立ちますね(笑)。

油のひみつ

庶民とフクミンの続きのようなもんです。千原繁子さんのエッセイを引用してますがさらに続きを引用します。

20数年たった友人のところに往診したら、一人の人品いやしからぬ老女がいて、「茶をいれてあるから、どうぞ」という。友人曰く、姑の弟の妻で、宇良の天ぷら屋の娘だという。そこでお互いにあの頃の思い出を語り特別おいしかった原因と香ばしかった秘密を聞いた。油は種子油を使うが、その臭気を消すのに飛魚をおろしたアラを揚げ、皮のついた豚の脂身を鍋に入れ、火にかけてとったラードを混ぜていたのが秘訣だったようだ。豚の皮はスープをとり、揚げた油も皮も争って買い手がいた。そのスープで粉を溶いたという。男主は八重山を往復して商売をしていたが、母娘二人の天ぷらの利益のほうが、話にならないほど上回ったそうである。
カルテの余白/千原繁子 p95、96(省略と編集)


秘訣は。飛魚を揚げての種子油のにおい取りとラードを混ぜる事だったわけです。しかし衣の味付けに豚スープで、ラードを混ぜた油で揚げるんですからとことん豚づくしですねぇ。
あと辻の芝居小屋にいかに人が来ていたかというのも伺えます。

ラードはチャンプルー、ンブシー、イリチー、揚げ物にふんだんに使われた。ラードの事をアンダといい、植物生油のことをマーアンダといい、ラードのほうが格が上であった。
那覇市史資料編第二巻中の7 p196


自家製ラードの製造と保存も一般家庭で普通に行われています。それとラードの製造時にでる油かす(アンダカシー)を食べておいしかったと語っている話もどこかで読みました(がどこだったかは忘れました)。

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