有名なブクブクーをたてている写真です。

「那覇市史資料編第二巻中の7」の196ページには「ブクブクーをたてている原国マヅルさん」というキャプションで同じ写真があります。
千原繁子さんのカルテの余白に、ある首里の御殿がぜいたくな生活をしていたために斜陽化して泉崎の原国家に建物を買い取られて移築されてしまうという話があります。
「王子御殿というので、鴨居が高く柱は槙(まき/チャーギ)の四寸角以上、抜襖も槙で那覇の富豪のどの家よりもすばらしかった」と書いています。
沖縄県人事録(大正5年)に原国政勝という名前で高嶺尋常小学校校長の項目があります。一部抜き出してみます。
沖縄県首里区字真和志の士族政輔氏の長男にして、文久3年(1863)那覇区字泉崎に生る。原国政勝さんは師範学校を明治20年に卒業、首里小学校訓導、南風原尋常小学校訓導兼校長、喜屋武尋常小学校訓導兼校長。明治45年に高嶺尋常高等小学校訓導兼校長となっています。
以下妄想として。
無理矢理な原国繋がりですが、首里士族だと思われる原国政勝さんの身内が那覇の風習であるブクブクーをたてていたのかといわれると微妙です。明治になる5年くらい前に泉崎で生まれている原国政勝さんの親の世代はどの程度那覇に馴染んでいたかというのもわかりません。
千原繁子さんの話に出てきた「王子御殿を買い取った泉崎の原国家」はたぶんこの原国さんで間違いないと思うのです。明治の初めでも高等教育をうけさせることのできる財力をもった家はあまりありませんでしたが、湧田(上泉)は石垣を巡らせた旧家ばかりでした。
原国マヅルさんは「真鶴」さんでしょう。童名の話になるのですが、王子・按司階級だと「真鶴金(マヅルガニ)」、諸士階級だと「真鶴(マヅル)」、百姓だと「鶴(チルー)」になります(参照元:那覇市史資料編第二巻中の7、p568)。
名前についても自分は良く知らないのであれなんですが、原国マヅルさんはこれでいくと王家関係者ではない士族階級ということになります。
この妄想はどうしようないのでここで吐き出してみました。妄想に妄想を重ねたうえにこじつけて何がしたいんだと言われれば何も言えませんし結論もありません(笑)。
明治42年頃、琉球王の行列の画で文展に入選した山口端雨は、一中の先生であった。その教えを受けた人は宮里栄輝さんなどの年配の方と思われる。その三女の山口文子は、明治43年県立高女に入学して私[千原繁子]と机を並べた。
彼女から、父が毎日、尚家の宝物倉庫に行って写生しずいぶん苦心した話、そして家主の某御殿の貧しさなど聞かされた。その中に「大根の葉やガンサーがちり捨て場に投げまれる後からアットーメーが取って持っていってしまうのよ」と、それには私は首を傾げた。若狭町あたりで葉やガンサーなどは、盛りを過ぎた春先以降ならともかく、捨てるものとは思っていなかったからである。
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その頃から、その御殿は斜陽化して、数年後には売りに出て、その建築物が泉崎の原国家として移築されていた。王子御殿というので、鴨居が高く柱は槙の四寸角以上、抜襖も槙で那覇の富豪のどの家よりもすばらしかった。
カルテの余白/千原繁子 p76、77(編集と抜粋)
ガンサー /gaNsaa/ デークニガンサー deekunigaNsaa と同じ。『食べ物に関していう。』『頑固者。頭が固いのにガンサーいった。ガンサータンメーグヮー gaNsaataNmeegwaa.年よりの頑固者。』
http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN10767
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