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那覇の旅館業(S12)

「日報の沖縄人名録 昭和12年版」という本から那覇市内の旅館業を抜出します。

那覇市西新町3ノ3 電117
宝来館 久木田サト

那覇市西本町1ノ10 電130
楢原旅館 楢原嘉平

那覇市西新町2ノ12 電512
あけぼの旅館 山下政彦

那覇市西本町3ノ7 電27
川津旅館 山本啓介

那覇市通堂町1ノ8 電211
森田旅館 森田モト

那覇市西本町2ノ12 電19
光陽館 奥平繁

那覇市西本町2ノ9 電275
末広旅館 厚地キク

那覇市西新町4ノ4 電583 
川本旅館 川本梅寿

那覇市西本町3ノ16 電218
常磐旅館 崎原朝雄

那覇市西新町2ノ24 電627
音波旅館 宇良宗樽

那覇市西新町3ノ11 電644
南陽旅館 仲嶺ツル

那覇市西本町3ノ2 電312
前田旅館 前田カナ

那覇市西本町2ノ5 電87
先島旅館 下地玉枝

那覇市西本町 電402乙
あまみや 稲田種菊


殆どが西新町と西本町ですね。
「先島旅館 下地玉枝」は宮古、「あまみや 稲田種菊」は奄美の人かもしれません。宿小や田舎宿のようであった可能性もあるかと愚考します。
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昭和12年の料理業

「日報の沖縄人名録 昭和12年版」という本から料理業の項目を抜出します。

那覇市通堂町3ノ1 電104
風月楼 楢原幾平

那覇市辻町1ノ133 電200
見はらし 崎間麗徳

那覇市辻町3ノ94 電516
三杉楼 新崎オタ

那覇市辻町3ノ108 電157
花咲亭 阿波連思明

那覇市辻町3ノ39 電192
美咲亭 阿波連思聰

那覇市上ノ蔵町1ノ55 電309
京屋 和田ヤス

那覇市天妃町2ノ1 電307
一味亭 松本平太郎

那覇市若狭町1ノ26 電72
別天閣 大濱英三

那覇市辻町3ノ78 電457
幸楽 親川ウト

那覇市辻町3ノ97 電601
蓬萊閣 高良知良

那覇市辻町3ノ107 電645甲
龍姫 伊舎良ウタ

那覇市上ノ蔵町1ノ52 電18
十八番 和田吾市

那覇市辻町3ノ107 電話355
銀花 水野増重

市外楚辺 電695
魚よし 中山辰秋


後半にカフェーらしきものもあるのですがそちらは別項(昭和12年の料理業 2)で。
大正末の新聞記事では別天閣(若狭)のオーナーだった崎間麗徳さんは昭和12年では波の上の「見晴らし亭」のオーナーとなっています。

那覇市旧跡・歴史的地名地図

那覇市が1996年に発行した「那覇市旧跡・歴史的地名地図」という地図があります。内容はこう説明されています。

琉球王国時代から沖縄戦直後に至る当時の建造物・拝所・井戸・地名など1,000件余を、1996年現在の那覇市現況地図に標記(4葉入)
http://www.rekishi-archive.city.naha.okinawa.jp/kankoubutu.html


この地図は1/6000でかなり大きく、「那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗」に付属する歴史民俗地図と比較すると多数省略されたものです。
ですが現在の地図上に書かれたものは貴重で、「歴史民俗地図」や那覇市教育委員会発行の本と組み合わせて読むことで詳しく調べることが可能になるでしょう。

最近こういう資料を目にして、こういうのを参考にして最初からやった方がいいんではないかと考えるようになりました...

壷屋の旧道(1920年代)

高橋誠一さんの論文で「那覇市壺屋地区における石敢當と集落形態」というのがあり、その中に1920年代に存在した道を現在の地図に重ねたものがあります。


Kansai University Repository: 那覇市壺屋地区における石敢當と集落形態
http://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/handle/10112/4308


上の図は論文中にあるものですが縮小してありますので上記アドレスでpdfを見て頂きたい。上図からGoogleMapにその道をいい加減に書いてみました。

壺屋(1920年代)

高橋さんが作図された時から変化していますので全くそのままではありませんがほぼ書けました。またわからなかった部分は省略してありますのでご注意。

旧那覇の機能

入江の両側に長大な石積みの防波堤が懐中に突き出しているが、これらは水路の両側に広がる珊瑚礁の浅瀬を縁取る恰好になっており、延長500mを超える北堤の途中に「沖之寺(臨海寺)」「中三重城」、終端には「三重城」が築かれていて、入港船舶を監視する望楼の役割を兼ねていた。また南堤の終端は「屋良座森城」であった。この入江に侵入してきた冊封使の船は渓流スペースの「唐船小堀」に寄せられ、「通堂」という埠頭から上陸し、「迎恩亭」で休憩した。さらに陸地を進めば「市場」、那覇の行政を司る「親見世」、特産輸出品の管理にあたる「砂糖座」、宿泊滞在施設の「天使館」が並んでいて、近代的な国際貿易港にも通じる空間構成を持っていた。天使館の背後には、海上安全を司る中国媽祖信仰である「上天妃宮」「下天妃宮」が排され、「孔廟」も置かれるなど、首位は中国的な空気に満たされていた。つまり、久茂地川によって出島的に孤立した空間は、琉球と中国が入り交じった、政治的文化的緩衝地帯として作用していたとするのである。しかし、これらの歴史的景観や雰囲気は、もはや存在しない。
CiNii 論文 - 琉球唐栄久米村の景観とその構造


那覇は歴史的変遷を重ねて来ながらも基本的な構造は戦災までは変わっていなかったのですが、戦後の都市計画によって徹底的に変わってしまいました。現在はわずかに残る史跡とあまりかわらない久米大通りがあるくらいでしょうか。
天妃小学校にある上天妃宮跡が昔のままですね。

媽祖(まそ)は航海・漁業の守護神として、中国沿海部を中心に信仰を集める道教の女神。
媽祖 - Wikipedia


沖縄での道教はどんなもんであったのか自分はいまいちわかっていません。中国文化が漠然と移入されたのか、それなりに根を持ったのか、間接的に影響されていたのかなど考えてみますがよくわかりません。><
久茂地の安物絵描きたちは関帝の掛け軸などを書いていたようですが。
あと仏教施設は多いです。

上記引用に出てきた当時の施設などは下記リンクなどで確認して下さい。
参考:グダグダ 明治初年の久米大通り
参考:グダグダ 那覇及び久米村図
参考:グダグダ 唐栄久米村と天妃宮

那覇及び久米村図

昭和初期の久米村図昭和初期の久米と景観推定図と同じく「CiNii 論文 - 琉球唐栄久米村の景観とその構造/高橋 誠一」から切り出しました。
実物は県立図書館所蔵のようです。


※「琉球唐栄久米村の景観とその構造」から切り出しと加工をして製作。
http://ci.nii.ac.jp/naid/110000949283

埋立以前の海岸線、こんもりとした森であった松尾山(現松山)などがみえます。

昭和初期の久米と景観推定図

以前唐栄久米村と天妃宮で取り上げた図よりもう少し大きな範囲の図です。
作者は前図と同じく高橋誠一さん、元の図は昭和初期の久米村図と同じく「CiNii 論文 - 琉球唐栄久米村の景観とその構造/高橋 誠一」に掲載されています。

昭和初期久米の景観推定図
※「琉球唐栄久米村の景観とその構造」から切り出して製作。
http://ci.nii.ac.jp/naid/110000949283

しかしこれだけ正確な資料があると自分がいい加減に書いた図なんかすべてやり直しですね。
書いた当時は資料があるのを知らなかったのと無精をしてしまったからなんですが...

昭和初期の久米村図

「CiNii 論文 - 琉球唐栄久米村の景観とその構造/高橋 誠一」という論文があり、その中で久米村の推定図がありました。

昭和初期の久米村
※「琉球唐栄久米村の景観とその構造」から切り出して製作。
http://ci.nii.ac.jp/naid/110000949283

論文には推定図を作成する上での困難なども書かれてあり興味深いです。
ご一読をおすすめします。

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