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沖映通りのジミーパン(60年代)

60年代の沖映通りで取り上げた写真に「ジミー」という部分が読める看板の店が写っています。



昭和中期(69年頃)のゼンリン地図を確認すると、国際通りから沖映通りに入って角が並里商会で、隣はジミーベーカリーになっています。宜野湾大山に本店のあるジミーなのかなということでジミーの社史(?)を確認してみました。
【追記】1965年9月に沖縄タイムスにより撮影された写真での店舗の看板には「ジミーパン」と書かれています。詳細は文末に追記します。
また上の写真も「ジミーパン」と読める事に気がつきました。


Jimmy"s 50th Anniversary 1956~2006
発行 株式会社ジミー


ジミーの商品紹介と歴史、それとエッセイのような本ですが、この本に創業者の稲嶺盛保さんの「ジミー創業物語」が6ページほどあります。年表もありますが、沖映通りの「ジミーベーカリー」や「ジミーパン」については触れた箇所はなく、他の名称での店舗についても触れられていません。
創業物語と年表から稲嶺さんとジミーの(復帰までの)歴史をまとめてみます。

1930(昭和5)年 首里崎山で農業の両親のもとに誕生
1946(昭和21)年 北中城の基地内で働く
????年 北谷町瑞慶覧で洗車業「ジミーズカーウォッシュ」開業/立ち退きのため廃業
????年 那覇市真玉橋の琉球ミートに就職/結婚
????年 浦添市の商社バークレーに勤め、取引先でパンに触れる
1956(昭和31)年 宜野湾市大山で雑貨商「ジミーグロセリー」開業
1958(昭和33)年 ジミーベーカリーの称号を使用


年表では大山店のオープンから1982年の那覇店のオープンまで新店舗はなかったようです。1976年まで配達車で小売店への卸販売は行っていましたが那覇に配達していたかどうかはわかりませんし、この沖映通りの店舗に関係があったのかどうかもわかりません。
写真の掲載元であるImages of Okinawa after World War IIでは1968年とされていて、60年代にガーブ川の改修は行われていますから一応大体の年代はあっています。しかし後述するタイムスの写真では65年には沖映通りのガーブー暗渠化は終了しています。
これに限らずImages of Okinawa after World War IIの撮影年月日は少し怪しいものもあり簡単には信用できないところがあります。このあたりはちゃんと検証しなければいけないのですがおざなりになっていて申し訳ない。
ガーブー流域の暗渠化進展状況はまとめようと思っていますがなかなかまとめられずにいます(後日まとめます)。
下の画像は64年市勢要覧から。
ガーブ工事

【追記】コメントで「沖縄タイムスフォトギャラリー/あんやたん」に掲載されている写真にこの店舗が写っていて「ジミーパン」と書かれていることをご教示頂きました。
写真は下記アドレスの「No:C_154742」で、説明は「水上店舗道路駐車」、撮影日時は「1965年5月24日」となっています。
65年は「ジミーパン」、69年は地図上では「ジミーベーカリー」であったことがわかりますが、別の写真を見ると同時に表示していた可能性もあります(追記参照)。

http://photo.okinawatimes.co.jp/list.php?event_id=C&page=3

【追記】まちのたね通信の写真からスクリーンショットして加工。64年撮影。

http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=2081
※上のアドレスの画像はもう少し鮮明です
上の看板は「パン」の字の「ン」が見え、下には「JIMMY'S」とその下に「ERY」とだけ判別できる文字が見える(BAKERY?)。ジミーベーカリー(英語/英字)とジミーパン(日本語)の両方が同時に表示されていた?
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那覇市の名字数上位60(78年) 2

那覇市の名字数上位60(78年)の続きです。

同じ名字の人が何人いるのか、このほど市のコンピュータがはじき出しました。それによると、名字総数は4651でいたって少なく、同一名字を名乗る人が最も多いのが、キンジョウで10919人、一人しかいない名字の方が何と1100人もいるなど興味深い結果が現れています。
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キンジョウ、ウエハラ、ヒガ、オオシロ、ミヤギの上位5つの名字を名乗る人はあわせて39518人。7人に1人は上位5つの名字のどれかを名乗っていることになります。
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また他府県からの人口流入を推測させるように「ワタナベ」名字が302位188人、「スズキ」が332位165人、「タカハシ」が342位155人、「コバヤシ」386位121人、「サイトウ」391位119人となっており、私たちが良く聞き慣れた「ヤブ」548位62人、「オオナカ」611位50人、「タガミ」631位46人よりも上位にランクされ人数も多いのが注目されています。
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1つの名字を名乗る人が1人しかいないのは1100人ですが、1つの名字を名乗るのが2人しかいない人は498人、3人しかいないのは408人、4人しかいないのは434人で、そのほとんどは「ハシダテ」「ホリゾノ」「モミノキ」「アブラヤ」など沖縄では聞き慣れない名字で、純粋に沖縄県内の名字は少ないようです。
市民の友 1978(昭和53)年 3月15日 第327号(抜粋と編集)


「ヤブ」さんは屋部さんもいますが、(殆どいないとは思いますが)一応薮さんもいますからね。「タガミ」って内地性では?
wikipediaによると「比嘉、金城、大城、宮城、新垣」が沖縄の上位5姓のようです。
参考:沖縄県の名字 - Wikipedia

1つの名字を名乗るのが2〜4名というのは(それだけではないとおもいますが)おそらく家族なのでしょうね。沖縄で結婚した内地出身者で沖縄県人の夫人、あるいは内地からの婿(少ないでしょうが)のケースが思い浮かびます。

明治に来た寄留商人には変わった姓の人も結構いますが、見かける事は殆どありません。西里さんがこんにゃく、新元さんがタオル、楠見さんが薬局などの商売で目立つくらいでしょうか。
少し前だと平尾さんが琉銀関係にいたり、昭和(戦後)の人事録では戦前の製糖関係者で内地姓の方が結構いました。
戦後に寄留商人たちがどうしたのかというのは少数を除いて調べきれていませんがゆっくり追っかけていきたいと思います。

那覇市の名字数上位60(78年)

市民の友1978(昭和53)年 第327号に名字のベスト60がありました。これはカタカナと数字だけのコンピュータからから漢字も使用できるものに切り替えるための資料の一つとしてまとめられたようです。
当時の那覇市の人口は293350(本庁93263、首里5073、小禄41033、真和志105091)で総世帯数が86745です。

1〜5
キンジョウ 10919/ウエハラ 8414/ヒガ 8370/オオシロ 7434/ミヤギ 7381
6〜10
アラカキ 5800/タイラ 5645/タマキ 3897/シマブクロ 3827/ナカムラ 3438
11〜15
アカミネ 3425/チネン 3414/タカラ 3375/ヤマシロ 3232/ミヤザト 3206
16〜20
テルヤ 3002/シロマ 2979/クニヨシ 2667/トウマ 2475/シンザト 2220
21〜25
シモジ 2197/スナガワ 2103/ナカソネ 1995/ウエチ 1983/カカズ 1958
26〜30
ナガミネ 1889/アサト 1847/シンジョウ 1809/ギマ 1625/トグチ 1818
31〜35
グシケン 1607/イシカワ 1588/マタヨシ 1540/ヨナミネ 1539/タマシロ 1456
36〜40
ナカマ 1425/マエダ 1419/ヨギ 1402/イトカズ 1352/ナカモト 1292
41〜45
ガナハ 1228/シヤヒラ[ママ] 1192/トウヤマ 1171/トカシキ 1161/ヨナハ 1145
46〜50
キナ 1138/タカエス 1137/オナガ 1118/ホカマ 1110/ヤマダ 1105
51〜55
ウエマ 1092/ナカザト 1068/オオミネ 1066/マツダ 1064/ウエズ 1060
56〜60
カワミツ 1038/グシ 1037/カミヤ 1015/イハ 988/トモリ 977
市民の友 1978(昭和53)年 3月15日 第327号(表から数字を抜出)


同じ記事で述べられていますが、同じ読みの異漢字、例えばトグチ<渡久地・渡口・渡具地>などの違いがわかりません。
その他にも新垣(シンガキ・アラカキ)、玉城(タマキ・タマシロ)の読みの違いも出てしまいますし、さらに新垣は異漢字の新嘉喜もいたりしますからさらにわからなくなります。

しかし地方に多い姓が結構見られますね。

波之上水上店舗の撤去

代執行で水上店舗撤去
那覇市は[昭和55年5月]23日午前9時から那覇市内・波上水上店舗の代執行を強行、焼け残った木材類の撤去作業を始めた。波上水上店舗は去る1月22日の火災で8店舗全部が焼けてしまった。これらの建物は港湾法や海岸法に違反していた不法建築物だ、として那覇市はこれまで数回にわたって撤去勧告をして来たが、所有者がこれに応じないため、この日の代執行となった。現場には被災者数人がかけつけたがトラブルはなく、作業は順調に進められた。那覇市は波上から若狭間の海岸を海浜公園として整備し、市民が広く利用できるようにする考えだ。
波上水上店舗が出来はじめたのは28年前。この間、那覇市は数回にわたって撤去勧告をして来た。だが、8人の業者はずっと貸しボート業を営んできた。そうした中で、去る1月、火災が発生し、すべての店舗が焼けてしまった。その後、那覇市と業者の話し合いはたびたび行われてきたが、「これまでのように貸しボート業を続けていきたい」と言う被災者の声は聞き入れらなかった。
そして、那覇市は去る3月14日、港湾法及び海岸法に基づき、同26日までに残がいを撤去するように所有者に命令した。それに業者が応じなかったため、4月7日に戒告書を発送するなどの手続きを取ったが、業者による自主的な撤去作業はなく、この日の代執行となった。
この日、現場には午前8時頃から那覇市の港湾部職員や請負業者らが詰めかけ、あわただしい雰囲気に包まれた。午前8時50分、稲福英男港湾部長が「4月30日までに工作物を撤去するよう警告したが、指定の期限までに履行しないので、行政執行法第2条の規定に基づき、執行し、その費用を徴収します」と代執行令書を読みあげた。ただちに請け負い業者による撤去作業に入った。作業員は27人で、ユンボ2台が次々に懐中に立てられているコンクリート柱を壊した。市職員も32人が動員された。
(略)
琉球新報 昭和55(1980)年5月23日 (抜粋と編集)


火事で焼けてしまった波之上水上店舗の撤去作業の新聞記事です。記事は「那覇市議会史 第4巻 資料編3」にあったものから引用しています。
>波上水上店舗が出来はじめたのは28年前
この記事は昭和55(1980)年ですから、できたのは昭和27(1952)年頃でしょうか。若狭は1951年4月に壷屋に続いて解放されていますので立ち入れるようになってすぐ造ったことになります。

1971年の地図ではこのように店舗があった事になっています。

関連:グダグダ(β) 水上店舗(波の上)

高良一


“ピンさん”で親しまれたもと那覇市議会議長の高良一さんが亡くなった。数々の逸話を残した86歳の生涯だった▼人の意表をつくことをズバリと言い、実践した。その一つが戦災で焼き払われた那覇市に「アーニー・パイル国際劇場」を建設した。沖縄における戦後の劇場第一号だ。当時の国際通りは狭い幅員だったが、将来の発展を見越して道路拡張を主張、劇場を造るに当たっては家一軒分ずらして造った▼その後道路が拡張され、国際通りと命名された。これは国際劇場にちなんだもので、高良さんは国際通りの名付け親であり、生みの親ということになる▼沖縄観光の先駆けとして、琉球ホテル(現東急ホテル)を建てたのが1951年のことである▼沖縄の近代的ホテル第一号だ。人々に笑われながらも山を崩してホテルを建てた。もちろん観光客はいない時代だったが、米軍将校や軍属らが大いに利用した。これには東急社長の五島昇氏も高良さんの着眼の良さに感心していたとか▼実現こそしていないが、都市モノレール建設や那覇〜慶良間間の海底トンネル建設。石川と恩納村の中泊間を運河で結ぶ構想はユニークでもある。特に運河をめぐる構想は今でも語り草になっている▼ロマンを追い続けた高良さんだが、泡盛党であったことも有名。洋酒天国であった沖縄で、地酒を愛し続けた。天国でも大ぶろしきを広げ、大きな身体をどっしりと据えて、友人たちとワイワイガヤガヤやっていることだろう。
琉球新報 平成6年4月8日


那覇市議会議長を長年勤めた高良一さんを追悼する新報の「金口木舌」欄です。
あとでプロフィール等を追加します。

※高良一さんの写真は那覇市議会史のpdfから切り出しました。

与儀タンクファーム

通称与儀タンク跡にあった那覇第2貯油施設(与儀タンクファーム)。
左図は「那覇市旧跡・歴史的地名地図」を参考に作成、青のポインタがゲートです。右は国土交通省の写真で77年の撮影です。
http://w3land.mlit.go.jp/cgi-bin/WebGIS2/WC_AirPhoto.cgi?IT=p&DT=n&PFN=COK-77-1&PCN=C59&IDX=9
那覇第2貯油施設(与儀タンクファーム)与儀タンク跡(77年)

昭和27年に強制接収。那覇港湾施設から嘉手納飛行場までの航空燃料移送の中継地及び石油オイル貯蔵所用地として使用される。土地区画整理事業が施行され、現在、主に住宅地として利用されている。
http://www.pref.okinawa.jp/kichiatochi/naha2.htm


ここは熊本鎮台沖縄分遣隊がいました。
図中の紫のラインの範囲が「与儀兵舎跡(分遣隊)」です。

1875(明治8)年5月、明治政府は<藩内保護ノ為>という理由で熊本鎮台沖縄分遣隊を沖縄へ設置することを決定し、翌年の1876(明治9)年7月には同分遣隊が沖縄に置かれました。
(略)下の首里那覇の絵図中、赤枠の場所が同分遣隊の宿営地です。現在の那覇市立古蔵小学校付近になります。

http://www.archives.pref.okinawa.jp/publication/2009/04/130.html


ちなみに下の図で南側にある黒い範囲が与儀タンク(だいぶはしょって書いているので正確な輪郭になっていないです)。
真和志南部解放順序
1972 年(昭和 47 年)日本復帰とともに撤去作業が開始されています。

【追記】まちのたね通信にガソリンタンクがあったころの写真があるのを教えていただきましたので追記しておきます。

那覇まちのたね通信 | 那覇/開放された与儀のガソリンタンク地域
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1834

那覇まちのたね通信 | 那覇/撤去前の与儀ガソリンタンク群
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1836

崎間麗徳

沖縄県人事録(昭和12)から崎間麗徳さんです。

崎間麗徳
那覇商工会議所議員
那覇市辻町3ノ1132
君は明治17年を以て那覇市に生る。台湾総督府経営鉄道学校を卒業後、同地鉄道部にに奉職して多年勤続し、大正7年帰郷とともに初めて本県に台湾茶の大量移入を試み、之が販売に従事せしも、其後転じて支那料理店「別天閣」を経営し、更に進んで料亭「みはらし」の経営にあたり今日に及ぶ。目下家業の傍ら、那覇商工会議所議員、所得調査員等の要職にあり、嘗て那覇市会議員に当選し多年市政に●瘁せり、他にトラバーチン採掘事業を兼営し頗る異彩ある事業かにして、天資明朗闊達、情誼に厚く然も企業的手腕に優れたものあり、以て各方面の信望大なり、殊に其兼業事業たるトラバーチンの採掘販売は、石材の豊富と優質を以て将来を最も有望視されて居り、事業的発展を期待さる。


若狭波之上通りの「別天閣」、波上宮側の「みはらし」のオーナーですね。

参考:グダグダ(β) 別天閣(若狭)

ちなみに国会議事堂のトラバーチンは宮古産のようです。
検索したら面白いページがあったのでついでに紹介しておきます。

平敷屋トラバーチン
http://www.okinawajoho.net/heshikiya/body/01-04-sangyo/01-trabachin/trbchin-01.htm

最盛時代は、沖縄石材が東京の日南貿易と、勝連トラバーチンは岐阜県の関ヶ原石材とそれぞれ提携して業を進めていた。(二社で従業員およそ100人)
その後勝連トラバーチンエ業は関ヶ原分工場を平敷屋に置き、那覇市繁多川へ移転し、沖縄関ヶ原石材と改称している。

鮫島常太郎

沖縄県人事録(大正5年)から鮫島常太郎さんの項です。

鮫島常太郎
那覇区西本町5ノ3 電話54番
汽船同盟事務所書記長
鹿児島の人、明治元年同市新町に生まる、亡父七兵衛氏の長男にして、七人の兄弟を有するも夫人との間に子なし。普通教育を鹿児島市に於て享けたる後、明治18年東京に出て前田正名氏の書生として同25年まで其家に寄宿す。同27年本県に来りて沖縄開運社に入り、又鹿児島郵船会社の事務を兼ね、同38年開運会社の解散と共に之れを罷め、大正元年同盟事務所書記長となり、現今に及べり。
試みに通堂附近に行いて、通堂名物男の旗頭と聞けば、衆人口を揃へて『アレカ』と答ふ、其の『アレカ』で通るを誰とか爲す、我が鮫島常太郎君其の人なり。体躯矮小のニコニコ然たる好々爺は即ち君にして、其矮躯を同盟事務所に現はすや、所内の卓子に倚つて恰も考へ事を爲すに似たること約2時間余り、斯くて又何処ともなく飄然として出で去る。其日常の斯の如きを観ずれば、何人も其閑散を羨むなるべし、豈計らんや、一間君の如く閑散にして然も君の如く多忙なるは凡そ他に類を見ず。性才子肌にして頗る多能、荀も君に依頼して事を拒絶せられたる事なしと云ふに見れば、其裏面の活動想ふべし、好漢惜むらくは未だ子宝なく、是れ常に君の嘆ずる所たり。杯は好んで手にするにあらず、隅々宴席に連りて少量の酒を用ひんか、陶然として何事も打忘れ、小唄に酔余の快をやり、興至れば浮いて踊ると云ふ、蓋し酒癖無き無邪気さは通堂名物男の名に反かず。


なんか愛されていますね(笑)。

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