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Seamen's Club(山下町)

外人さんのサイトからシーメンズクラブの写真を拝借。この建物の場所は山下町ですが現在は移転して空港の近くにあるようです。移転したのは90年代?
最初にできたのは1945年のようです。
参考:Seamen's Club serving Merchant Marines since 1945 - JapanUpdate.com

(左)Seaman's Club in Naha
http://www.hartshorn.us/Navy/navy-25d.htm

(右)Naha, Okinawa - March 1953
http://www.navycthistory.com/roland_intro.html


場所は下写真のAポインタの場所だったはず。Bポインタの陸上トラックと入口との位置関係とで見て下さい。
写真は国土交通省のもので加工は自分によります。

http://w3land.mlit.go.jp/cgi-bin/WebGIS2/WC_AirPhoto.cgi?IT=p&DT=n&PFN=COK-77-1&PCN=C58&IDX=5&PNO=1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19

以下余談。最初の写真のサイトに興味深い写真が。

詳細は下記サイトが参考になるかと思います。

古今東西風俗散歩(町並みから風俗まで) : 那覇(小禄新辻町の特飲街跡)白人専門でした。
http://huusan.exblog.jp/13962498/
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ClickOkinawa.com

ClickOkinawa.comというサイトから写真を拝借。

城岳木工場(参考)、三笠タクシー。

http://mickmc.tripod.com/hyatt103.html

かめや、すみれ美粧院(参考)。

http://mickmc.tripod.com/hyatt118.html

「Black Market Street - Naha」となってますから那覇市街なんでしょうね。

http://mickmc.tripod.com/hyatt134.html

病院通り(牧志)

病院通りといえば久茂地だと思ってしまいますが、那覇タワー前の通りもかつて病院通りと呼ばれていたようです。
むつみ橋付近図

那覇まちのたね通信 | 那覇 歳末風景 南映劇場
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=798


上のまちのたね通信での写真の時期は「1964年12月」となっています。最初の図は1969年のゼンリン地図を参考にしたものですが病院などは書いてありません。
ここで病院通りにあった病院名を抜出してみます。
国際通りから入って左手には武富歯科、渡嘉敷医院、稲福医院、外間眼科、崎浜産婦人科、山里医院。右手には宮城医院、大見医院があります。

以下余談。
写真で通り入口右手の建物に「十」という字が取られたような跡が見えます。

65年の地図ではこの場所は「十文字屋」と「朝日商会」になっています。69年の地図では「(建)」となっていますので建築中だと思われます。
1957年撮影の写真にはこの場所で営業している十文字屋が見えます。

那覇まちのたね通信 | 那覇(国際通り)/国際通り 牧志付近
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1987

>「那覇市歴史資料室収集写真/戦後/オリオンビール発売1周年の垂れ幕が見える/(1957/05)
>オリオンビール発売1周年の旗を掲げたパレード
>山形屋,カクイわた,十文字屋呉服店,CLUB TAIHO,大宝館,UP STAIRS GIFT SHOP


十文字屋呉服店は57年にはここで営業していて64年には山形屋斜め向かいの現在位置に移転(地図は反映が遅い?)してたと思われます。
そしておそらくこの建物は69年には取り壊されていたのでしょう。

安里駅 2(一高女)

安里駅の続きです。
左の図での学校内の配置は「ひめゆり学園(女師・一高女)の歩み」という図録の16ページから、周囲は真和志民俗地図と「那覇市旧跡・歴史的地名地図」を参考にしています。
右の図は「那覇市旧跡・歴史的地名地図」からですがこの図は現在の地図の上に書かれていて範囲など信頼できるものと考えています。

左図での赤い箇所が正門、その前にあるのが相思樹並木です。

しかしこれらの図と安里駅で取り上げた写真を見くらべても安里駅がどういう配置でどういう構造だったのかさっぱりピンときません...
現在のモノレール駅あたりの道路の奇妙さがこのころに起因しているのはなんとなくわかるのではないでしょうか。
安里駅については結論なしということにさせてください...

以下余談として。
安里・大道間の地形でとりあげた米軍の作戦図。

栄町のあたりが丘になってるのがわかるでしょうか。

那覇まちのたね通信 | 真和志(学校)/沖縄県立第一高等女学校・沖縄県女子師範学校 万歳三唱
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1293


最初の図で緑色の四角はテニスコート、そしてそばに見える碑のようなものが陸軍墓地のなにかではなかったかと思います。

那覇まちのたね通信 | 真和志(学校)/沖縄県立第一高等女学校・沖縄県女子師範学校 田毎の月(ダンスの演目)

http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1292


最初の図を参考にすると運動場(茶色)の背後は南側になると思うのですが何にもありません。

【追記】45年の空撮を追加します。

真和志民俗地図ほか

参考にしている図についても書いておきたいと思います。

那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗(1979年)
沖縄戦で破壊される前の旧那覇・首里・真和志・小禄・の社会生活、衣食住、生業、信仰と祭祀、年中行事、人生儀礼、民俗知識、芸能、言語伝承を216点の写真、図版、地図5枚を添えて詳述。付録:那覇市歴史民俗地図(5葉)


この本の付録に「旧真和志の歴史・民俗地図」があり、「旧那覇」、「小禄」、「首里」も同様の形式であります。それに大正10年の参謀本部陸地測量部測図(1/50000)を基に拡大した「那覇全図(1/18000)」がついて全部で5葉です。
このブログでは「旧真和志の歴史・民俗地図」を「真和志民俗地図」というふうに略して呼んでいます(旧那覇も同様)。

それに様々な字誌や那覇市などでも引用される真和志市誌の「真和志区劃図」。オリジナルは古く大概ボロボロなので、他の文献で引用されているものが同じものではあるのですが見やすくなっていていいかと思われます。
※個人的には国場誌に掲載されているものがいいんではないかと(オリジナルそのものではないですが)。

那覇市が制作した「戦前の○○民俗地図」というのが散見されますが、那覇市史につけられた「那覇・真和志(首里、小禄)の民俗地図」の調査段階での部分図のようなもので、区域が狭い分詳細な面がありこれも参考にしています。
そのほか字誌等に掲載されている図も参考にしています。
「沖縄歴史地図」には明治初年の「那覇市街図」。
国場組社史には「昭和初期の那覇市街図」。
県立図書館の「貴重資料デジタル書庫」に大正4年の「那覇区全図」。※web閲覧/ダウンロード可能
Wikipediaには1930(昭和5)年の「那覇」の図。※web閲覧/ダウンロード可能
「那覇市史資料篇 第3巻1」に付属して「1945.12」「1946.2」「1947.5」の空中撮影写真をもとにした「那覇市復興地図」。
「那覇市歴史地図 -文化遺産悉皆調査報告書-」は那覇市内の史跡や旧跡を現在の地図上に示したもの。
「那覇市旧跡・歴史的地名地図」は現在の地図上に旧道や史跡・旧跡を示した地図ですが「那覇市歴史地図」ほど詳細ではありません。
県立図書館にある昭和26年6月に発行された「最新那覇市地図」をもとに戦後の那覇の区を現在の地図に自分が描いた

「那覇市史 資料篇 第2巻中の7」には旧辻遊廓之図。
若狭公民館のうきしま大学で製作された「若狭町 古地図」は「昭和19年当時(昭和10年頃〜10・10空襲まで)」となっています。
国場誌には「戦前の字国場屋号地図」、「集落の名所遺跡地図」。
上間誌には「昭和初期の上間本部落民俗地図」。
那覇新都心物語には「旧銘苅民俗地図(昭和18年頃)」、「戦前の天久村」。
天久誌には「昭和10年頃の天久村の民俗地図」。
安謝誌には「民俗地図安謝(大正期〜昭和15年)」。
わったぁ兼久には「戦前の兼久位置図」。
「銘苅港川原遺跡」には「1947年頃の地形と遺跡分布」として新都心一帯の地形と遺跡の図。
泊前島誌には「島小周辺要略図(戦前)」で前島シマグヮーの図。
「垣花村跡」には「戦前の通堂町民俗地図」、「戦前の山下町民俗地図」、「戦前の垣花町民俗地図」、「戦前の住吉町民俗地図」、それとは別に垣花・通堂は明治/大正/昭和の三期それぞれの3つの図があります。
「繁多川再発見ガイドマップ はんたがわさんぽ」には「はんたがわさんぽMAP」という地図。
わたしたちの那覇市-総合学習(Link)には繁多川の旧跡・文化財の図。
「写真で見る旧泊 崇元寺町 高橋町 前島町の変遷」に戦前の泊高橋〜崇元寺〜前島の戦前の図、「明治初期の泊」、「戦前の崇元寺町民俗地図」、「戦前の高橋町民俗地図」、「戦前の前島町民俗地図」。その他1945年の航空写真とその説明、1960年の航空写真などいろいろ。

※「写真で見る旧泊 崇元寺町 高橋町 前島町の変遷」掲載の各民俗地図は、1976.7.29、同8.5、同8.12付けのタイムスからコピーされたもののようです。その連載をまとめたものが「琉球学集説 新聞切抜 88」として県立図書館にあり、内容は「主に沖縄タイムス掲載シリーズ『思い出のわが町』より」と説明されています。
※那覇市作成の民俗地図をそのまま掲載しているものは上のリストから外しました(その他の図があるものはそのままです)。

このブログで資料や図などは下記カテゴリ。
関連:グダグダ(β) 地図
関連:グダグダ(β) 資料
このほか図書館等で閲覧できる地図などもあり、これだけではないのですがとりあえず。

【余談】那覇市が所蔵している地図の目録はこんな感じのようです。
http://www.rekishi-archive.city.naha.okinawa.jp/map.html

VFW

Remembering Okinawaにある「Maps of the businesses around Okinawa 1967」の「Map #1 Naha, Machinato」にトヨタとVFWの位置ほかを書き加えました。

http://www.rememberingokinawa.com/page/1967_Business_maps

ちなみに安謝川を越えると浦添になります。「国立劇場おきなわ」ができて何年になるのかわかりませんが、自分が記憶しているのはボロボロの極東放送と廃墟のVFW、そしてローラースケートランドくらいです。
あの一帯の地名は小湾ですが俗称として「ブイエフ」と呼んでいる人もいました。
VFW -> Veterans of Foreign Wars

VFW
http://sargecharlie.blogspot.com/2009/01/from-out-of-my-past-contact-through.html

参考:VFWクラブ跡

阿波連額縁堂

わかさ民俗地図」には西武門附近に「阿波連額縁堂」という店があります。



那覇まちのたね通信 | 生活/阿波連額縁店
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=2646


阿波連額縁店、看板に「元西武門」の文字あり」と説明されています。
ささいなことですが書き留めておきます。

信興商事(旭通り)

那覇まちのたね通信 | 那覇(平和通り)/旭通り
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=2044


丸国マーケット裏付近、旭通り」がわからなかったのですが丸国周辺にありました。

図の右下に「信興商事支店」があり、やや上に「びっくりそば」もありますので写真は神里原大通りから撮られたもののようです。
70年代のゼンリン地図にはこの2つともありません。

平和通りの本店の様子。51年の「沖縄主要地・主要商工年鑑」には新栄通りに「振興商会」という店舗名がありますが関係はわかりません。
平和通り
参考:グダグダ(β) 安村書店

那覇まちのたね通信 | 生活/信興商事本店のようす
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=2645

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