忍者ブログ

グダグダ(β)

メンテナンス中/内容について一切保障できません
3/24アクセス解析再設置/不快に感じられる方はJavaScriptオフを推奨

MENU  ブログ内検索は左のMENUからできます

ENTRY NAVI

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

戦後の自動車運転教習所

戦後すぐの運転免許で古波鮫唯成さんが現那覇市役所の敷地で教習を受けたことを取り上げました。
那覇市役所は65年に現在位置に移る以前は天妃小にあり、現那覇市役所の位置はバスターミナルだった時期もあります(現在のバスターミナル建設以前)。
時期的には国際通りの拡張(54年)が終わり、そこにあったバス会社の営業所が移動を余儀なくされて移動したということになるかと思います。そこから想像するならば教習所があったのは終戦〜54年までの間の一時期であろうと思われます。
残念ながら古波鮫唯成さんの手記以外には現那覇市役所敷地で自動車教習所があった記録や市内の他の教習所がいつ頃できたのかは調べられていませんが、「新郷土地図 第一巻/沖縄タイムス社(1957)」に那覇市役所の位置がバスターミナルとなっている写真があり、同じ写真をまちのたね通信で見ることができます。

那覇まちのたね通信 | 那覇(航空写真)/県庁前交差点(琉球政府、バスターミナル)/1954年頃
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1853


古波鮫さんの話に出ている米軍交付の免許と沖縄側による免許は戦後しばらく両立していたらしいのですが、運転技術の差に問題があったため1953年以降は民間人は琉球警察のものに一本化されたようです。
また当初は1946年4月から民政府工務部陸運課において試験を実施して有効期限5年の免許証を交付していました。
参考:グダグダ(β) 自動車運転免許

1950年頃から始まった企業として自動車教習所という未確認のものがあるのですが、戦後経済のスタートがそのころですから事実である可能性は高いと思われます。
沖縄大百科事典による自動車教習所の説明では1953(昭和28)年頃から那覇に2ヶ所(安謝・首里)教習所ができたそうです。

この項目はいったんここまでにして、50年代くらいまでの自動車教習所は個別に調べていきたいと思います。
PR

リュウキュウマツの杭

少し前の沖縄タイムス記事から。


http://www.okinawatimes.co.jp/article/2011-07-03_20034/
那覇市久茂地の沖縄タイムス社新社屋建設現場から、旧社屋の基礎に用いたリュウキュウマツの杭(くい)が見つかった。3本一組で連結して使われていた。リュウキュウマツは油分を多く含み腐食しにくいことから、1950年代にコンクリートや鋼管に代わる基礎材となったが60年代以降、建物の高層化に伴い姿を消した。戦後の物資不足を象徴する「発掘」となった。
---
材料は本島北部から800本以上取り寄せ、長さ2~3メートルに裁断したマツ杭を3本一組に連結。米軍から借りた機械を使い、地中に打ち込んだという。
上原名誉教授によると、県内でのマツ杭は、60年ごろまでビルの基礎材として使われた。建物の高層化に伴い、頑丈なコンクリートや鋼管を確保できるようになり、マツ杭は次第に姿を消したという。


タイムス記事は消えてしまうものもあるようなので(?)メモ代わりに。
建物は「旧社屋は総工費2000万円で、1956年8月國場組が工事を請け負い、翌57年6月に完成。鉄筋コンクリート3階建てで当時県内の民間ビルとしては最大規模を誇った」そうです。
まちのたね通信にある完成あとの写真。

那覇まちのたね通信 | 沖縄タイムス社周辺に建物なし/昭和32年(1957) 12月25日
米軍1号線(国道58号)に歩道が無い

http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=3403


那覇まちのたね通信 | 沖縄タイムス社 大典寺側未舗装/昭和33年(1958) 3月10日
タイムス前十字路・軍1号線・国道58

http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=3404

赤丸宗/黒丸宗

1965年に発行された具志堅宗精の自伝「なにくそやるぞ」から引用します。
具志堅宗精
そこで父祖伝来の味噌醤油業をはじめることにした。資本金は3万円(B円)、出資者は7名、資金も琉銀から各自借りて、これを出し合った。それと琉銀からの借入金275万円で、準備は完全にととのった。
場所は真和志郵便局向いの寄宮で、具志堅味噌醤油合名会社として発足した。もちろん当時は、バラックづくりの粗末なもので、従業員もわずかで細々と経営していたが、銀行借り入れの資金で51年の1月、首里寒川町の現在の所在地に木造瓦ぶき平屋104坪の本建築の工場をつくり、従業員も20名にふえた。1950年宮古知事をやめた私が社長、弟[宗発]が工場長であった。当時の醤油の年間販売高が460石、味噌は3万斤程度であった。しかし、それからは醤油の売り上げも毎年上昇して今日の基礎を築いたが、その基礎つくりに一番役立ったのは、なんといっても、私が運動した結果、53年の4月から行われた醤油の全面的な輸入禁止であった。従業員もこのころから急にふえて、もろみ室やこうじ室など工場設備をどんどんふやし、建物もスラブぶきのブロック工場にした。
---
赤マルソウの製品は現在全琉需要のうち醤油がその70.8%を占め、味噌が58%を占めている。
なにくそ、やるぞ/具志堅宗精 p181、182(抜粋と編集)


赤丸宗は宗精と弟の宗発、黒丸宗が兄の「宗演」です。「なにくそやるぞ」から兄の具志堅宗演の名が出てくる箇所を引用します。

私の兄の宗演(黒丸宗社長)は少年のころからおとなしく、けんかなど余り好まなかった。相手にけんかを売られても取り合おうとしなかった。
なにくそ、やるぞ/具志堅宗精 p22(抜粋と編集)


性格が正反対ですが宗精のあだ名は天皇ですからね(笑)。「なにくそやるぞ」は1965年の発行ですから、当時黒丸宗が健在で宗演も黒丸宗社長職にあったことがわかります。
戦前の具志堅味噌醤油は垣花です。そして自伝からは50年に寄宮で発足したことと発足翌年の1951年に首里寒川の工場に移っていることがわかります。しかし自伝では寄宮の黒丸宗のことに触れていませんし兄の「宗演」についてもノータッチです。
これらのことから推測してまとめると、戦後寄宮に「具志堅味噌醤油」があり、首里寒川の工場設立で宗発/宗精組が具志堅味噌醤油、寄宮の具志堅味噌醤油は「宗演」が経営し名前は黒丸宗になったということなのかもしれません。黒丸宗についての情報は探せていません。
【追記】赤丸宗のサイトに沿革がありました。
昭和25年11月3日/具志堅醤油合名会社創立
昭和30年9月3日/会社商号を具志堅みそ醤油に改める。資本金を10,000,000 B円増資。
昭和41年12月20日/会社組織を株式会社に変更し、商号を赤マルソウみそ醤油株式会社に改組。

http://www.akamarusou.co.jp/corp.html

赤丸宗は最初から「具志堅醤油合名会社」で赤丸宗というのは商標からきた通り名のようなもんでしょうか。そうなると黒丸宗はどういう名前だったのかが気になります。
サイトを参考にすると1950(昭和25)年創立で、1950年は在寄宮ですから、寄宮時代から首里の赤丸宗は連続した同じ会社ということになります。黒丸宗が分離したということになるのか?
この分裂に関してはけんかわかれの噂もありますし実際にゴタゴタしたんでしょうが関係者以外にはわかんないことなんでしょうね。

黒丸宗の位置ですが左は60年代中期の地図から、右写真は1977年の撮影(国土交通省)です。
左図の範囲等はアバウトなものです。
http://w3land.mlit.go.jp/cgi-bin/WebGIS2/WC_AirPhoto.cgi?IT=p&DT=n&PFN=COK-77-1&PCN=C59&IDX=9


上左図は60年代中期の地図にある黒丸宗(ほか)を現在の地図に書き入れたものですが、上左図から右写真への間に黒丸宗は現在の寄宮市街地分譲住宅になっています。
※1958年発行の「沖縄主要都市地図」では現寄宮市街地分譲住宅の位置に黒丸宗はあり、別ページには「本家クロマルソウ 寄宮区 HONKE KUROMARUSHO」とあります。
関連:グダグダ(β) 垣花町 (戦前の垣花の企業名に具志堅味噌醤油)

冒頭の具志堅宗精の写真はwikimediacommonsからのものでパブリックドメイン扱いです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Sosei_Gushiken.jpg

有銘酒造所(有銘普喜)


図は「泊前島誌」の「島小周辺要略図(戦前)」を参考に書き入れたものです。「有銘(酒屋?)」と描きいれてありますが元の図ではただ有銘とだけ書かれています。宮城酒屋と糸数酒屋は元図のままです。
有銘酒造所について「泊前島誌」から引用します。

戦前沖縄県には凡そ71軒の酒造業者が居り、県内外に広く販売網を広げ沖縄県の経済発展にすばらしい成果をあげていた。前島町には糸数酒造所と私の有銘酒造所があり、今を遡る明治26年創立以来昭和19年の末まで凡そ50有余年にわたり操業を続け小規模ながら庶民に親しまれていたが沖縄戦による鉄の暴風によって徹底的に灰燼に帰した事は誠に憤激を覚えるものである。
泊前島誌 前島の酒造について/有銘普喜 p372(編集と抜粋)


「写真で見る旧泊 崇元寺町 高橋町 前島町の変遷」の52ページに「大正末期の潟原」という写真があり、写真中に番号が書かれて内容が説明されています。写真は十貫瀬通りから三坂鉄工所を手前にして前島や泊を背景にしたものですが、右手の方の13番に「有銘酒造所及び住宅」と説明された建物があります。
冒頭にあげた「泊前島誌」の図を見ると前島板橋小のそばに有銘という名前があり、写真での位置とほぼ同じなのでここが酒造所だったと思われます。

参考:グダグダ(β) 泊の酒造

安謝劇場

安謝劇場

「那覇市旧跡・歴史的地名地図」にある安謝劇場跡です。
安謝は戦後の一時期密貿易の荷揚げ場所に近かったことや復興のための人間が早期に入ってきたこと、そして那覇中心部の解放が遅れていたこともあって繁栄していました。安謝劇場は50年代に作られたようですが戦後すぐの市場や繁華街には劇場があることが多いです。

【追記】沖縄商工名鑑(51年版)から安謝劇場を抜粋します。
安謝劇場
合資会社80万円 真和志村安謝区7班
演劇映画興行 富里朝章、宮平次郎、松村政則、古○屋秀福 喜瀬清弘 長嶺将保氏等の合資


参考:グダグダ(β) 勢理客の水田 (戦前の安謝の写真)
参考:グダグダ(β) 安謝港の復興 
参考:グダグダ(β) 安謝のその後
参考:グダグダ(β) 密貿易時代の安謝
参考:グダグダ(β) 住吉海岸での密貿易

国際温泉/国際湯

69年の地図には現在の玉の子保育園の位置に「国際湯」があります。当時の地図では国際湯の前には茶色で示した道があり、国際湯はピンクの敷地になっています。
国際温泉/国際湯
1956(昭和31)年頃になると、世の中もだいぶ落ち着き、安住の地を見つけて引っ越す借地人が出て来た。(略)場所は国際通りの国際劇場向いの通り沿いで、現在は玉の子保育園敷地となっている。人通りの多いところなので、貸店舗と公衆浴場を連ねて建てることにした。
工事は1957(昭和32)年8月着工し、翌年一月に完成した。
1958年(昭和33)年2月、公衆浴場営業許可申請所を妻春子名義で行政主席宛に提出し、許可を得て国際湯として営業を始めた。打込み井戸の水は透明であるが少し黄色がかっている。口に含むと多少塩分を含んだ味がする(略)分析を依頼したところ含食塩重曹泉でアルカリ温泉として療養に適すると判定された。(略)25度以上は温泉と称してもいいとのことであったので、温泉の分析表を記した看板を作って男女の浴場に掲げ、名称も国際湯から国際温泉と変えた。温泉の命名に効果があったのか、入浴客も次第に笛、首里、浦添方面からも訪れるようになった。
「高良嘉永人生記 働きざかり・花ざかり」 p116〜118(抜粋と編集)


高良嘉永さんはこの辺一帯の地主だった人です。そんなに遠くない場所にはりっかりっか湯がありますがこの辺は掘ると温泉が出てくる土地なんでしょうか。
参考:グダグダ(β) 久高将正と大城鎌吉の土地購入

国際温泉は復帰前に1972(昭和47)年4月1日に廃業のようです。
その後国際温泉跡で娘さんが無許可の保育園を始め、その後法人化(うるま福祉会/昭和55年12月許可)。嘉永さんはうるま福祉会へ私有地と建設費用の一部を寄付し玉の子保育園を建設します。
玉の子保育園の園舎は昭和56年3月完成のようです。玉の子保育園のサイトでは以下のようになっています。

昭和47(1972)年8月 無認可ひかり保育園開園
昭和55(1980)年9月 無認可ひかり保育園閉園
昭和56(1981)年4月 社会福祉法人うるま福祉会 玉の子保育園開園

http://tamanoko-hoikuen.com/index.php?id=2


また国際温泉の建物に関しては以下のように書かれています。
温泉は平屋建てで貸店舗は2階建てということでしょうか?

店舗2階建て延べ 37.5坪/工事費 52万2000B円
公衆浴場平屋建 42.25坪/工事費 58万9000B円
付属設備費(ボイラー、電気、水道、井戸等) 60万0722B円
「高良嘉永人生記 働きざかり・花ざかり」 p117(抜粋と編集)

沖映の業態

沖映の歴史については「沖縄映画興行伝説」さんに詳しいのでそちらに譲ります。

http://tokkan-kozo.com/bind3-eikoden/naha/pg02.html#%E6%B2%96%E6%98%A0

ほぼ説明は一緒ですが比嘉朝進さんの「戦後の沖縄世相史」から沖映について触れられている箇所を抜粋します。

牧志の沖映本館が”沖縄演劇”の自主興行を打ち出し、今年[1965年]5月、第1回上映の「史劇おきなわ」は一ヶ月の長期興行で11万人の観客を集めた。俳優陣は松竹歌劇の川路竜子・千草かほる他と沖縄劇団の各座長との合同劇。けんらん豪華な舞台装置は宝塚歌劇や松竹歌劇を見るような本格劇。第二回の「竜神の舞」も前回に劣らぬ盛況。俳優は月給を保障され、12年間続いたが、観劇客はしだいに減少、77年11月自主上演を打切り、貸し劇場にした。しかし賃貸が高いので借り手は少なく、沖映館はパチンコ店に切り替えた。
戦後の沖縄世相史/比嘉朝進 p104、105(抜粋と編集)


「沖縄映画興行伝説」では沖映本館があってその後ニュー沖映が増設されたと説明しています。
下図は69年のゼンリン地図を参考にした沖映の図で、沖映通り側が「沖映娯楽センター」、その横が「沖映本館」になっています。


「沖縄映画興行伝説」を参考にすると、映画館として沖映本館がスタートし、55年に改築、56年頃増築(ニュー沖映)。65年頃に「沖映本館」は演劇専門の劇場になり77年に貸し劇場化、80年代後半にパチンコ店という流れのようです。

ここからは個人的な想像ですが、69年の地図にある「沖映娯楽センター」は増設された「ニュー沖映」ではないかと考えます。ニュー沖映から名前が変更されているのと「娯楽センター」という名前の印象からは映画館や劇場であることにすこし疑問がありますがどうであったのかはわかりません。この辺も映画史の本には書いてあるんでしょうけども未読です。
とりあえず69年はこうなっていたというメモ代わりとして。

パチンコ屋の出現

比嘉朝進さんの「戦後の沖縄世相史」から。

昨年[1953年]6月1日、パチンコの許可制で80軒が開店した。スラブマシン(スロットマシン)は、ハーバービュークラブやVFWクラブで、コインを入れてガチャガチャやっていた。今年頃から軍払い下げ品で市中の営業が始まった。
今年[1954年]はゴルフ・ゲーム屋も現れた。昨年はコリントゲーム屋・玉転し屋・セラトゲーム屋が開店。50年にできたビンゴ屋はかすんでしまった。遊技場は166軒が営業している。
戦後の沖縄世相史/比嘉朝進 p64(省略と編集)


50年代の住所録にはパチンコ店もあり代表者名もありますが沖縄の姓だったと記憶しています。内地との関連等はわかりません。スロットマシンは基地からというのも良く言われることです。
たから百貨店では1969年のゼンリン地図を参考にしてむつみ橋周辺の図を作りました。
むつみ橋付近図
この図でオレンジ色で示されているのがパチンコ店やラッキーボールです。このほかにもゲームハウスという名前もありますが図には書いてありません。
検索してみるとコリントゲームはパチンコの原型のような野球盤のようなもの、セラトゲームは検索しても該当無し、ラッキーボウルは玉を転がしてやるビンゴゲームのようなものか? こうしてみるとゲームハウスはこのような遊戯機械があった可能性もありますね。

参考:グダグダ(β) ビンゴハウス (1952年の新商売として名前の見えるビンゴハウス)
参考:グダグダ(β) 神里原通り (こちらにもビンゴ屋の名前が見える)

× CLOSE

ブログ内検索

アクセス解析

カレンダー

05 2025/06 07
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30

最新コメント

[08/08 なちょうらーざ]
[07/19 shimoji]
[07/19 shimoji]
[03/21 2階の店舗の娘]
[03/05 福島敏彦]

× CLOSE

Copyright © グダグダ(β) : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]