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52年の味噌醤油醸造元広告

沖縄主要地主要商工年鑑(1952)の広告から。

味噌、醤油、醸造販売
木下籐吉商店
安里大通(第四二、四三図)
---
白味噌、赤味噌 良品で知らる
外間成政醸造工場
ニューパラダイス通(第十九図)
---
キッコー球醤製造発売元
球屋商店
宮里雄喜
樋河大通(第三十図)
---
味噌、醤油!試験の結果は日本品に劣らぬ
具志堅醸造所
社長 具志堅宗精
(第三十七図)
---
純粋な味噌あじ 純粋な味噌香り 栄養100%
砂川味噌醤油工場
砂川玄昌
(大道区4班大道販売店隣)


球屋商店は樋川大通り(52年)にあります。
木下籐吉商店は木下藤吉(木下味噌醤油/木下籐吉商店)
具志堅醸造所(赤丸宗)は50年代初期の具志堅醸造所

調味界の最高峰
●の味噌・醤油[*1]
礎矢のイソヤソース
●の酢の本[*2]
何れも近代的設備に依り本島に於ける技術者を網羅し多量生産に依って以て日本品輸入の防あつに備へると共に良心的製品を皆様に贈りご満足を得る可く鋭意研究と努力を傾注しています
何卒倍旧の御引立の程を御願ひ申ます
礎美産業合資会社
社長 川野長太郎
那覇市楚辺2区4班 (第三十六図)

※*1は左、*2は右

礎美産業合資会社は刑務所通り(52年頃)
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牧志ウガン野外舞台

1957(昭和32)年の市民の友から引用します。

スマートな野外舞台
牧志角力場に完成

那覇市ではさきに建築中であった牧志ウガンの角力場内に鉄筋コンクリートのスマートな野外舞台が7月22日完成したので、市民の集会、リクレーションに開放しているが、教育布令で校舎の使用が事実上困難になった現在、那覇市に於ける設備の整った唯一の公設娯楽及び集会場として11万市民から大きく期待されている。一方都計課では同角力場を含む周辺1369坪の“牧志公園”を計画、子供の遊び場も設ける予定なので、市民にとって今後盛んに利用されることになろう。
野外舞台は準備部屋も含めて36坪、平良組が445000円で完成した。敷地369坪の中央に角力場、周囲に3000名収容の円形スタンドが設けられており、つめれば5000人は収容できるといわれている。社会課では同角力場の使用希望者は申し出るよう望んでいる。
市民の友 1957年8月1日 第78号 (抜粋と引用)


あれは野外舞台だったのか...

関連:グダグダ(β) 牧志ウガン角力場

玉那覇 蒲(加眞)

ちょっとした言及ですが書き留めておきます。
石垣にあった酒造所の話です。

1920(大正9)年の『先島新聞』には「本部酒造家の大名誉」と題して、九州沖縄の酒類品評会で泡盛を出品して各賞を受賞したことがみえる。受賞者には玉那覇蒲、屋比久松、浦添為良、新垣清亮の四名の酒造家があげられている。これらの酒造家はいずれも石垣の酒造場であり、工場形式の酒屋として従来に比して格段に多くの生産高をあげていく。字大川の新垣酒屋は八重山で泡盛の製造販売をする最初の酒屋であり、明治時代の創業という。同じく字大川の浦添酒屋は初めて泡盛の製造販売をした地元出身の酒屋である。

また、玉那覇酒造は明治末期から大正初期の創業といわれる。初代の玉那覇有和は首里から酒造りのために来島した。当時は、新垣酒屋があるのみで、他に酒屋はなかった。有和は次男でヤーワカイ(家別れ=分家)であった。当地での酒造業が成功したので、本家の玉那覇を呼び寄せた。父玉那覇蒲(加眞)がその人であった。父は那覇の泉崎で酒屋を営んでいた。したがって、石垣には石垣工場の玉那覇と登野城工場の玉那覇という2つの玉那覇酒屋ができた。
泡盛の文化誌 p112(編集と抜粋/強調)


「日報の沖縄人名録(昭和12年)」の酒造業での石垣町はこうなっています。字石垣47の有和さんが泉崎にいたお父さんの玉那覇 蒲(加眞)さんを昭和の始め頃に呼び寄せたということのようです(後述)。
八重山郡石垣町字大川/新垣清禎
字大川201/屋比久松
字大川313/浦添為良
字石垣47/玉那覇有和
字登野城170/玉那覇有明


最初の引用を手がかりにして泉崎の酒造を書いたのですが、泉崎の玉那覇はよくわかりませんでした。参考にしたのは沖縄タイムス連載の「思い出のわが町」中の「泉崎、湧田民俗地図」です。この図はおそらく戦争前くらいの時期を想定しているのではないかと思われます。
書き終わってからこの泉崎の玉那覇について泉崎の酒造のコメントでご教示頂きました。

泉崎の玉那覇酒屋(玉那覇加眞)は軽便鉄道の上泉の踏切の前(踏切ヌメー)にあり、商標は玉を〇で囲み下に一を書きマルタマイチと呼んでいた。
昭和の初期に石垣に移る


昭和4年頃相当の那覇民俗地図には那覇駅からさほど遠くない地点に踏切があります。大正の図にある3つの橋は上から泉崎橋、松田橋、旭橋で、松田橋から踏切へ向おうとすると、那覇駅の後を通り下泉・上泉の境界(タナカスージ)をこえ線路際を進んでいくと踏切に至ります。ちょうどこの道が明治の図での海岸沿いの道です。

いただいたコメントでは上泉の踏切の前とのことでしたので玉那覇蒲(加眞)さんはこのあたりにお住まいだったのでしょう。
「図説・沖縄の鉄道/加藤芳英」の「県鉄各駅停車」から引用します。

昔の駅構内の中心は、バスターミナルの中心よりやや南で、国道329号線(与那原街道)が拡張されて駅舎のあった位置は道路になっている。(略)構内を出るとすぐ踏切があり、ここは往来も多く事故もあったので「魔の踏切」だったそうだ。
図説・沖縄の鉄道 p56、57(抜粋と引用)


与那原街道に鉄道が通って駅ができ、大正7年に海の向こう側が埋め立てられて旭町ができるなどこの一帯は激変しています。

参考:グダグダ(β) 那覇区全図(大4)(大正期の図の元図について)

崇元寺通り(52年) 2

崇元寺通り・昭和通り(52年)での崇元寺通り部分の後半です。
右図は沖縄主要地主要商工年鑑(1952)の第十二〜十四図で、後半の今回は牧港自動車株式会社(で表示)から泊高橋までの区間です。

1は安里側から。
知花工作所、石川カジヤ工場、池原商店(くすり 酒類)、外真金物店、瑞ヶ覧金物店、城間金物店、若竹食堂、ハッピー食堂、クインアイスケーキ、崇元寺食堂、琉米文化会館、琉球中央政府資源局、崇元寺派出所。ここから向こう側の泊一帯はエンジニア部隊です。
後方(天久側)には安里側から順に●綿花工業所(●は○に綿)、丸京工芸社、一丸旅館、白梅旅館があります。

2も安里側から。
金城商店、つるや質屋、丸仲食堂、大福理髪館、小渡金物店、石川薬舗、よしや食堂、松島食堂、メリー食堂、奥間菓子店、光和食堂、タマヤガラス店、富村洗濯所、沖縄タイムス社、やましろ屋食堂(角)。道をこえて玉江工業所(バッテリー充電修理)、大嶺鉄工所、○洋鉄工所、マルマサ商会(自動車三輪車エンジン修理塗装)、大井川鉄工所、山中組、丸真組、少し間隔が空いてOK運輸社修理工場、合資会社千代田ゴム工業所(*1)、大城鉄工所、大和商会
また後方(川側)には大福理髪館後方に大福湯、崇元寺橋側に富名腰旅館、沖縄建築資材株式会社があります。
※*1「タイヤー チューブ 更正焼付修理 合資会社千代田ゴム工業所」

気がつくのはエンジニア部隊の向いには鉄工所が集中していることですね。OK運輸修理工場はおそらく後年のOK給油所です。
52年当時前島はまだ解放されていません。

参考:グダグダ(β) 前島のスクラップ

崇元寺通り・昭和通り(52年)

左図は沖縄主要地主要商工年鑑(1952)の第十二〜十四図は崇元寺通り(又吉通り)で、今回は安里三叉路から牧港自動車株式会社までの区間を取り上げます。
牧港自動車株式会社は現在新都心から下りてくる道のそばで右図では緑で示してあります。

左図が第十二〜十四図での区間、右図は沖縄主要地主要商工年鑑を模したものですがわかりづらいところは変えてあります。右図での右側はほぼ北で、道は安里三叉路から泊高橋までの区間、中間点にある琉米文化会館は現在の崇元寺です。

1は安里側から。
三共バス安里営業所、高良商店(大きな区画)、常磐旅館、OK運輸社、喜納商店、裏側に遊覧バスのりば、昭和バスのりば
表通りの大きな区画は「安里三叉路丸[九?]十食堂」となっています。その中に書かれた店舗名はフクヤ、ワカバ、つた、味見屋、キューピー、味好屋、丸栄、一幅屋、八起、まつや。その裏手は千代の屋旅館、八幡旅館、三さろ旅館。後方には●フトン打ち直し(●は○に真)、道の突き当たりには安里木工所
表通りに戻って相川商店、○○食堂、金城商店、スーパーラジオ店、牡丹食堂、はるや食堂、金城商店(*1)、日本輸入商会、タイプライター修理所、宮里旅館、鶴千代食堂、京栄冷蔵庫製作修理所、ヒット理髪館(角)
道をこえて角屋食堂、道奥に入りチェリー食堂(大きな区画)、みやま旅館若狭理髪館、ガジヤ自転車店、風月食堂、山田商店(角)
2も安里側から。
さかえ商店(角)、大黒屋支店直売店、まるや食堂、時計修理瑞宝堂、大きな区画2つは松川タタミ安里支店、沖縄新光薬品会社三星タクシー、京家食堂、富屋食堂、琉球厚生協会、読谷共進連絡所、共進貿易商事、沖縄漆器会社(角)。道(昭和通り)をこえて琉貿(角)、音広食堂(角)
音広食堂の横の道奥が牧港自動車株式会社です。
※*1にはがつく

昭和通りは崇元寺通りから曲がって右手に琉貿、沖縄織物会社、向春印刷会社、合資会社西平商事、玉城組、山田板金加工所、中央木材、丸協商会(角)となっています。
その向かい側は崇元寺側から沖縄漆器会社(角)、太平木工所、琉球煙草元売捌会社、沖縄製帽(角)

寄留商人所在箇所


左図は新聞資料による旧慣制度撤廃後那覇の地図作成で取り上げた図の中から「寄留商人所在箇所」を赤で示し「大正3年当時の海岸線」で色を塗ったもの。右図は昭和初期の地図でもう少し広範囲のものです。
図でよくわからなかったところは赤くしてありません。
また寄留商人はこれだけではないと思われます。

字西・字東を中心とする一帯には、寄留商人による大規模な米穀、呉服、雑貨の卸売店舗、本土商店の支舗、高級旅館、銀行、大通りに面しつつも敷地の狭小な箇所については飲食店が分布する。
海に面する字西の埋地には、海運業者、材木業者、砂糖や肥料関係の移出入業者とその倉庫が集中し、(略)
各戸の敷地が広大な字久米には会社役員の寄留が多く医院、教会などがある。
なお那覇全体に関しては、至る所に県内外出身の相当数の寄留者がいた。商店に丁稚した者はもちろんのこと、医者も好立地の場所に寄留して開業し、寄留商人も更なる適地を求めて移転する事例が見られる。
グダグダ(β) 新聞資料による旧慣制度撤廃後那覇の地図作成

市場通り(52年) 2

市場通り(52年)の続き。
左図は沖縄主要地主要商工年鑑(1952)の第十七図・十八図から作成、右図はその範囲を示したもので左図とは上下が逆になっています。
左図中の市役所は当時現グランドオリオンのあたりにあります。

まず桜坂は緑色ので示した箇所が珊瑚座です。市場通りから桜坂に入ってaが大見マーケット、bが那覇無尽、cがアサヒマーケット(角)、dが岸本印刷所です。壺屋側に進んで道奥にあるeがテル美粧院。さらにに進んで左手の坂道左側のfが富士商事株式会社、道向いのgが「三共バス糸満線のりば」です。

1は国際通り側から。栄橋通りとの十字路角は通前派出所、少し行った先が平和堂時計店、平名商店。後方の囲んだ部分は「市場内 雑貨販売部」となっています。
道をこえて角に友栄商会(角/大きな区画)、そしてフタバ美粧院、吉森商店、キラクマーケット(大きな区画)、キラク食料品ストア、仲宗根商店、名城商店。 道をこえて角に民衆百貨店。 道をこえてうさぎや(角)、ラッキーストライク販売店、みりおん(角)。 道をこえて宮城商店(食料雑貨/角)、漢那商店、福原商店、丸新商店(衣料雑貨/角)。 道をこえて●商会(●は○にヱ/角)
2も国際通り側から。
まず左側の道奥にピカソ美容室(*1)があります。表通りに戻りカネイチマーケット(角)、楠見薬局、川田厚生堂、文楽堂、国吉商店、荒垣兄弟商会支店(*2)、明○堂、大丸百貨店、旭すし支店
桜坂に入る道をこえて角にcのアサヒマーケット、続いて永山商店(日用雑貨荒物)、大洋ガラス、、富村商店(食料品雑貨)、大城商店(日用雑貨)、宜保商店(角)。 道をこえて上間時計店、とみや商店(食料品雑貨)、少し離れて小田切商事、前仲商店。 進んでgの三共バスのりば後方の坂道に沖縄陶器、バスのりば隣りが東陽バス
※*1「ピカソ美容室 奥島幸子 東京美容専門学_出身」、*2「化粧品 小間物 雑貨卸売 荒垣兄弟商会支店」

桜坂から民衆百貨店のある新栄通りまでの区間にテル美粧院(e)のある道がどこにあったのかは図からはよくわかりませんが、おそらく現在もあるキラク花城向いの路地がそうなんでしょう。
また52年当時の神里原・那覇劇場のあたりはバス道路と呼ばれていたようですがこの図のバスのりばに由来するんでしょうか。

刑務所通り(52年)

那覇高校から刑務所(現裁判所)は刑務所通りでした。
左図は沖縄主要地主要商工年鑑(1952)の第三十六図で下が北、右図とは反対になります。

右図に那覇高校から城岳学校までの道を破線で描きいれてありますがここが戦後暫くどうなっていたのかは今のところはっきりわからないところがたくさんあります。それと右図では刑務所から城岳学校(現城岳小?)の道を現在の道と同じとみなしていますが、左図では十字路になっています。「那覇市復興地図(47年)」を見ると現在のT字路近くに道があり変形十字路と見えなくもなかったことがわかりました。

1は図の左から丸善木工所(角)、那覇高校向いに大きな区画で末広食堂、その隣りに城岳木工場。しばらくいって浜乃家旅館、沖縄物産、共同印刷所
2は那覇高校側から礎美産業株式会社(元 川野長太郎商店)、仲地組、大宜味組、浜松医院
3も那覇高校側から城岳書店(角)、ひかり湯、城岳ふとん店、道の奥に沖縄朝日新聞社
4も那覇高校側から豊里ガラス店、金城写真館、大きな区画で樋川工業所、道向いに川平設計事務所、教会

城岳木工場(ClickOkinawa.com)。

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