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マチグヮー(那覇)

旧那覇のマチグワーは6カ所ありました。
公設が3カ所で自然発生的なものも含めた私設市場が3カ所です。一番大規模なのは東町にあった那覇市場ですがその他の市場もそれぞれの場所柄などに応じて少しだけ特色があります。

•那覇市場/ナーファヌマチ(東町)
•久茂地マチグヮー
約80坪、私設
•潟原マチグヮー
450坪
•泊マチグヮー
約200坪
•垣花マチグヮー
約100坪、私設
•崇元寺マチグヮー
80坪、私設

※出典はすべて那覇市史
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ワイトゥイ

ワイトゥイで検索すると勝連の切り通しのことが出てきますが方言で切り通しのことをワイトゥイといいます。割り取りですね。
本の中から那覇のワイトゥイのことを引用しておきます。

人口密度が高く、集落間を結ぶ通路としてのワイトゥイは沖縄本島中南部に多く分布していた。特に琉球石灰岩とニービ(砂岩)が広く分布する地域のワイトゥイは昭和期に至って構築された物が多く残存している。
近年、公共事業の一貫として各地のワイトゥイは拡張整備され、歩道のついた道路となり様相がすっかり変わってしまい、未舗装のワイトゥイを見つけるのは容易ではない。かつて首里の儀保から平良に至るジーブクビリ一帯にあったテーラマチがにぎわった通りも、今では石嶺本通り(県道5号)の通路となって、ワイトゥイらしさを失い、そこを通る人達はほとんど思いもつかないらしい。かつてワイトゥイは隣村の若者同士が集う毛遊びの場所でもあった。
(島袋 伸三)
地名を歩く/南島地名研究センター編著 p124


ジーブクビリは「儀保のクビリ」で、クビリは括れと同義で狭くなった場所のことです。
テーラマチは汀良平良マチのこと。

兼次佐一

兼次佐一元那覇市長は捉えにくい人です。
いろいろ感じるところはあるが同時代人や近くにいた人、あるいは本人しかわからない部分というのはあるんだろうと思います。また毀誉褒貶が激しい人でもあります。

お孫さん(?)が著作を抜粋してインターネットで読めるようにしているみたいです。
著作は読んだことがありますが、古い本でもあるしあまり古書店にも出回るような本ではないので貴重ではないかと思います。
http://sarangkay.exblog.jp/tags/%E7%9C%9F%E5%AE%9F%E3%81%AE%E8%90%BD%E6%9B%B8/
※真実の落書タグが著作の「真実の落書」です。

このブログ(グダグダ)の中ではガーブ川の七不思議で登場。

墓地制限

7/18日付け琉球新報から。

16市町村墓地制限へ “乱立”規制の動き拡大

家族墓や門中墓など独特の葬送文化を持つ沖縄では特例的に個人墓地が認められてきた。
県内の許可墓地8540件のうち8430件(98%)を個人墓地が占める(2010年3月末現在)。
この結果、個人墓地が無秩序に散在し、継承者不在や無縁化の墓地、墓が増加。墓地計画を策定した市町村の計画書では区画整理や道路整備など土地利用計画が遅れたと指摘されている。


98パーセントが個人墓地ですか。
良く知らないのでアレなんですがこれは件数なのか面積なのかというとこで実態がよくわからない感じがします。たとえば墓苑のような大規模墓地が一件で個人の門中墓も一件だとすると面積では比べ物になりません。
しかし市街地開発で喉元のトゲのように一件だけ残った無縁墓というのは開発の障害にはなりますね...
墓地地帯の再開発だと緑が丘公園一帯では周囲が公園になった中にドデーンと墓がありました。墓が連なった眺めというのも私にとっては故郷の風景なのですが土地の価値が一変してしまった現代では許されないもんなんでしょうか。

墓地の移動は過去に那覇市では辻のサンモウジ(三文殊)周辺の辻原墓地を識名霊園に移動させていますしここ最近に始まった動きではありません。現代でも那覇新都心の外れに返還後新設された墓があったりします。
墓地や霊園が近隣に作られることを喜ばない住民もいますし行政の開発計画と規制が必要になってきたのは間違いありません。
古墓群
那覇市民俗地図から墓の記号がついている場所を赤点でマッピング、水色でぬられた場所は大規模な古墓群です。
牧志の古墓群はナイクブ古墓群で現在開発が進んでいます。
大和墓は那覇高校後方ですが現在は失われています。
トゥングヮーマーチュー、フチサも周辺は住宅地で墓は散見されるような形になっています。
 ※トゥングヮーは殿小(トゥン-グヮー)?
 ※フチサは地形に因する名前だったように記憶しているが忘れてしまった。
追記済み
現希望ヶ丘公園は民俗地図には門中墓地と書かれている。

図示したのはこれだけですが、実際にはナイクブ古墓群からは旧山形屋の向かいあたりの坂を下ってずっと墓地が続いていますし小規模の墓地(古墓かどうかを問わず)はあちこちにあります。
墓地になっているということは耕作不能かつ居住不適格で集落からそんなに遠くない場所という条件を示しています。古い形式の掘り込み墓などでは設置に向いた土地であったというのも条件に加わるかもしれません。
近世、現代と墓地に求められる条件は変わってゆきますが現代においては住宅事情が一番優先されるというのも時代だよなぁと思います。

鉄道計画

前回の鉄道地図を掲載したと思ったら新聞紙上にて鉄道計画図が出た。

鉄道、総事業費8600億円 導入可能性、県が報告書 - 琉球新報
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-164270-storytopic-3.html

那覇市内は地下で郊外からは高架や盛り土をして作る計画のようです。
ただし採算にのるのは那覇-コザ間のみで延伸すると赤字になってしまうようです。南部郊外は新興住宅街や開発も盛んですがそれでも厳しいんでしょうか。

ともあれ鉄道は欲しいところです。

兼久

鏡水(カガンジ)と関連する兼久(カニク)。
鏡水と同じように土地の性質からの地名です。

兼久は砂地の義

羽地村字稲福の俗称を兼久という。
兼久は砂地の義であることは普通にしられていることであるが、しからば何故に砂地を兼久というかは明らかでない。
あるいはかにくカリクの義で、カリは枯れることであろう。砂地は則ち枯れ地で、鏡水というのが剥地の義であるのと同様である。に言うことは方言に例が多い。則ちマニ(尻)は放り(マ-り)であり、タニ(男根)は垂りであり、山原語はアニは蟻である。そして石グ砂グと同じ接尾語であろう。
(略)
我如古は宜野湾村の字名でガニクと読み、兼久と同じく砂地の義であろう。
(沖縄地名考/宮城真治 p63)


そういえば手に取れるくらいの石をイシグーと呼びますね。
兼久・カニクが何故砂地なのかというのは普通に知られていることとして説明はないですねぇ(笑)。

那覇市では兼久という地名は消えてしまいましたが、上図の前島あたりの水色で二つ囲まれた地域の上のあたりが兼久です。那覇市民俗地図では兼久の塩田として示されています。

真和志南部(南風方/フェーカタ)

那覇市史より引用します。

旧首里と旧那覇両市の中間に介在する旧真和志村(後に真和志市)を南北に二分して、続に南部を南風方(フェーカタ)、北部をニシカタと唱えた。南風方の地域は、国場川をへだてて、南風原・豊見城・小禄三村に接し、識名・上間・仲井真・国場・与儀・古波蔵の6部落が、識名から那覇の泉崎に至る断続する丘陵の上、またその斜面に立地して集落を形成した。
これらの部落は、地割り制度によって、部落別に土地を共有して農耕を営み、かつ共同体の神を斎く村落共同体であった。
明治36年土地制度の変革によって、共同体の社会が次第に崩壊するに従い、都市近郊農村としてのこれらの部落の周辺には、村外から転入するものが多くなりいわゆる屋取り部落が発生した。
識名に繁多川、真地与儀に樋川古波蔵に楚辺、壺川、松尾などの集落ができて新しい行政区が誕生した。
(那覇市史資料編第二巻中の7、p39)

※下線と強調は私によります。

原集落と新集落(屋取り)の関係が示されています。
>識名に繁多川、真地
>与儀に樋川
>古波蔵に楚辺、壺川、松尾


そして、
地割り制度によって、部落別に土地を共有して農耕を営み、かつ共同体の神を斎く村落共同体であった。
明治36年土地制度の変革によって(略)転入するものが多くなりいわゆる屋取り部落が発生した。

と屋取り部落の発生について考察されています。
土地制度の変革はいわゆる地租改正ですが本土では明治の初めに行われたことが沖縄では明治36年なのかというのはいろいろ本が出ていますから調べて下さい(なげやり)。同時期に先島の人頭税もやっと廃止されています。

立ち入り制限

終戦後の市街地の発展には立ち入り制限の段階解除が尾を引いています。
その辺と土地を巡るあれこれを那覇市のpdfから抜き書きしておきます。
http://www.city.naha.okinawa.jp/sisei/pr/youran/2006pdf/nsy2006_II-5.pdf

1945 年(昭和 20 年)
•陶器と瓦工業復興の目的で男子先遣隊 103 人が壺屋町に入市(11 月 10 日)
1946 年(昭和 21 年)
小禄、真和志への住民移動許可
1947 年(昭和 22 年)
•奥武山を中心とするペリー、壺川、楚辺、松尾一帯に那覇とは別の行政区みなと村を設置
1950 年(昭和 25 年)
•みなと村、那覇市に合併

•米軍、天久、上之屋一帯の立退を命令
1951 年(昭和 26 年)
•東町開放
1952 年(昭和 27 年)
壺川、若狭町の一部開放
1953 年(昭和 28 年)
若狭町の一部と旧西新町 2 ・3 丁目開放
1954 年(昭和 29 年)
旧高橋町一部、旧泊小学校開放
•首里、小禄を合併
1955 年(昭和 30 年)
松下町開放
•真和志市を那覇市に合併

1972 年(昭和 47 年)
•与儀ガソリンタンクの撤去作業開始
1983 年(昭和 58 年)
•小禄金城地区区画整理事業計画決定
1986 年(昭和 61 年)
•天久米軍用地牧港住宅地区全面返還


元のpdfをみてくとわかるんですが東町あたりは軍がつかっていて立ち入り禁止だったようなんですね。うろ覚えですが前島辺りも軍がいて立ち入り禁止だったはずです。
那覇市役所も牧志公設市場敷地、開南、牧志町(4 区)、天妃小学校、現在と移転しています。
そしてその後の大きな変化は復帰を機会とした与儀ガスタンク、小禄、現新都心区域の返還まで待つ事になります。

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