那覇の貧しい人々はどのように暮らしていたか。
久茂地の河原端(カーラバンタ)、譜嘉地の新村渠、湧田の先、若狭町の東より、牛マチの西側、久米村の堂小屋敷(ドウグヮーヤシキ)などは那覇の場末で細民街であった。河原端から新村渠にかけて、また久茂地川にそって美栄橋にかけて絣結職人が多く、美栄橋よりの新村渠には線香、粉挽き職人がいた。葉お香を板にのせマチに売りにゆくのは妻女の仕事で、麦粉売りは小桶を頭にのせ呼び声高く門口をふれてあるいた。湧田先の草履作り、新村渠の木かんざし作りは那覇名物で、つげの木地を手頃に裂いて荒削りのままざるにいれて女客をまっていると先の鋭い切り出しで削り鮫皮で磨きをかけ、旧藩時代一本5、6文で売ったようである。見世の前にはこのかんざしマチがたち客も商人も女ばかりであった。
那覇の細民街といえば松尾山の下にあった堂小屋敷は有名だが、妻女たちは波の上近くの屠殺場を漁って脂身の細切れを拾って夕市に持ち込んだり、夜明けに起きて松尾山、遠くは古波蔵あたりの松の根元を彫って「トボシ」を削り東市場の東角にあるトボシマチに持ち込む。これら細民は平日泥まみれにかけずり回ってやっと7、8銭にしかならない収入で日々の飢えをしのいでいた。
那覇市史 通史2 p180トボシはトゥブシ(たいまつ)でしょうか。細民街としてあげられているのは以下。
>久茂地の河原端(カーラバンタ)
>譜嘉地の新村渠
>湧田の先
>若狭町の東より
>牛マチの西側
>久米村の堂小屋敷(ドウグヮーヤシキ)ミンダカリ(新村渠)については過去記事
参照。
久茂地の川沿いで、小字河原端(カワラバンタ)から新村渠(ミンダカリ)に至る一円の地域は、長虹堤築造後、上昇した新地である。普門地(フムンジ)潟原ともいい、又は内潟原とも唱えられていた
七つ墓のある丘陵の裾あたりに美栄橋が築造されていたが、この美栄橋を渡ると、北側は埋立地の前島町、南側が久茂地町の新村渠(ミーンダカリ)で、この辺には、ウコーヤー(黒く平たい線香作り)だの表具師などが、軒をならべていた。>妻女たちは波の上近くの屠殺場を漁って脂身の細切れを拾って夕市に持ち込んだり
スーヌサチ、
バクチャヤーの側には屠殺場がありました。

また牛マチはわからなかったのですが西本町と西新町の境目辺りにはウシマチサガイ(牛マチ下がり)という道があります。図ではオレンジ色で示した西新町の角の部分になります。
堂小屋敷は久米村の中に水色で示した水路の右上辺りの一帯のようです。そばに東寿寺(堂小)という寺があります。
ナーファヌマチの隅にトゥブシ市があったようです。

左下の五つ並んだ小さな売り場の左から砂糖、トゥブシ(松明)、雑貨、果物、たこになっています。
粉挽きは方言でクンパーといいますが、那覇民俗地図では松尾山の側にはクンパー屋敷という名称が見えます。
クンパー /kuNpaa/
意味:製粉業。麦を製粉する。久茂地町内にあった。
http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN50648製粉の専業のひとが住んでいたのかもしれません。