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白山療養園

泊後方の泊後原の高台にあった白山療養園です。

web上に写真がありましたのでお借りしました。m(_ _)m
http://blogs.yahoo.co.jp/pusan_de/3116147.html
白山療養園
1911(明44)年に金城清松により設立された結核療養所で敷地10200㎡、建物726㎡とかなりの規模だったようです。また全国で14番目、地方圏としては3番目という先進的取り組みで、戦後も金城医師は結核予防活動などいろいろ活躍されたようです。
金城医師は北里柴三郎の北里研究所出身ですから当時のトップクラスの医師だったはずです。素晴らしい人がいたもんですね。
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新栄通り風景

昔の新栄通り(サンライズなは)の写真がにあったので無断拝借(失礼)。
撮影位置はポインタから開南方向にかけてだと思われます。赤のラインが開南から下って丸国マーケットに至る新栄通りで緑が水上店舗。
みつや書店

奥に見える一番高い建物が現在も残る水上店舗です。写真につけた店舗名は69年度版ゼンリン地図から確認できる分だけ書き込みました。

波の上プール

現波の上ビーチになっている波の上プール。
波の上プール

図はゼンリン71年版を参考にしています。
現在の砂浜の位置に風呂桶のようなコンクリの箱がありそこに潮の満ち引きで海水が出入りする(!)という方式だったようです。磯のタイドプールを人口で作ったような感じか?
プールの横の海上にあるのが海中店舗。全部木造で杭の上に店があるだけのものでかなりぼろぼろだった記憶があります。ちなみに、ひかり、あさひ、へいわ、みつわ、日の出、わかさという名前のようです。店からぜんざいなど食いつつ下を見るとウニだらけ、足元の板の隙間から海の光がちらちら反射しているのが見えるくらいボロでした。
公園側にはスケート場(オレンジ)があり、現在公園になっている敷地には民家(ピンク)。この公園一帯を旭丘と呼び、公園敷地内の民家はのちに撤去されています。

戦前の動画もあります。

OKINAWA in the 1930's - YouTube
http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=Vj8zVLcFh-8#t=71s

那覇市議会[那覇市議会史]

素晴らしい!ぶらぼー!

那覇市議会[那覇市議会史]
http://www.gikai.city.naha.okinawa.jp/history/index.html
平成7年度発刊 第3巻上 「議会の活動」アメリカ統治期
平成8年度発刊 第4巻 「新聞にみる議会」戦前期
平成9年度発刊 第3巻下 「議会の活動」復帰後
平成11年度発刊 第5巻 「議会の記録」アメリカ統治期(合併前)
平成14年度発刊 第5巻 「議会の記録」アメリカ統治期(合併後)5.48MB
平成15年度発刊 第4巻 「新聞にみる議会」アメリカ統治期(合併前)8.59MB
平成19年度発刊 第2巻 「議会の法規・組織」6.72MB
平成20年度発刊 第4巻 「新聞に見る議会」アメリカ統治期(合併後)印刷用21.4MB
平成20年度発刊 第4巻 「新聞に見る議会」アメリカ統治期(合併後)検索用31.5MB              
平成21年度発刊 第4巻 「新聞に見る議会」復帰後印刷用21.9MB


末尾にMBの表示がついているものはpdfでダウンロード可能!
那覇市は市制要覧を紙で発行するのをやめてpdfにしているので同様の方針の電子化だと思いますがよくやった!という感じです。

これでなにがわかるのかといえば戦後長い間解決しなかった土地問題やなんかがよくわかります(それだけではありませんが)。具体的には戦後からしばらく土地名義人の意志と関係なく進められた居住とその解決、代替地、基地による立ち退きとその移住先、保証などです。
那覇市史などで通史化(読み物化)されたものはとっつきやすくていいのですが、細かいことなどは原資料にあたらなくてはいけなくなります。そういうのが手軽にできるのは素晴らしい。

ただ10.4Tigerのプレビューだけかもしれないのですがpdf内の文字検索が出来ません。まぁ目次も一応あるんですけども...
pdfビューワーで解決可能かどうかちょっと調べてみたいと思います。

マカン道(北)

那覇・真和志を縄張りとする当方としては範囲外ですが、儀保十字路から松島中学校までの道についても補足しておきます。マカン道(西側)の続きです。
正確には儀保十字路から病院に入る手前まではマカン道ではないらしいのですが、繋がってる道でもあるし、首里からマカン道に向けて進む際に必ず通る道ですので取り上げます。
マカン道北

1956年発行の「真和志市誌」の道路の沿革の項に「首里・真和志間の道路」の道筋が書かれている。その一つとして次のルートがあった。
首里、儀保ー宝口(真嘉比、古島)ー東原ー前原ー安里後原ー神無良川原ー崇元寺に至る
首里から真和志への一つのルートは首里儀保からマカン道を通るものであった。マカン道は環状二号線を儀保十字路から西に下ると切り通しにかかり、それを過ぎたあたりから始まっていたという。儀保辺りの古老はその一帯の道を含めて「タカラグチャー」と呼んでいたと話しておられた。
(略)
環状二号線を儀保の十字路から西の辺へ下り100メートルほどもゆくと、左手の方(南)に道がついている。川沿いに細い道を川の流れに沿って行くと石畳の敷かれた坂になりその下りきったところが宝口樋川といわれているところである。樋川を過ぎて50メートルほどもゆくと環状二号線に上る。その一帯を宝口と言っている。
宝口の辺りは切り通しとなって環状二号線が伸びている。左手に坂道が伸びてゆくが上り詰めた右手には名渡山工芸館がありその先は行き止まりとなっている。この古い道は現在の道より8メートルほども高い場所があった。

那覇市立病院の東沿いに南の方に伸びる道は拡張され、道沿いには宅地が造成されている。病院の南側の丘陵地には松島中学校がある。学校を過ぎて100メートルほども進むと北東から西へのびる道と交わる。その地点までは現在の道とマカン道は重なっていたことは確かだが、道が拡張されているためマカン道の確かな位置はわからない状況にある。
北東(左)の方に下ると、古島の集落があり、古い地図に「古真壁」と書かれている場所である。
沖縄県歴史の道調査報告書〈4〉 p126-p129(要約編集)


報告とは違うのですが「古真壁」を書き込みました。
北東(左)の方に下ると古島の集落があり古い地図に「古真壁」と書かれている場所である。
図は北が真上で右が東、左が西です。儀保から下ってきて病院の角を曲がり中学校を過ぎて交差する道を左折なら北ではないので誤植ではないかと思われます。地形的にもこの図の範囲で一番低いのは川なので下るという表現も条件に合います。

名渡山工芸館のある場所は環状二号線からかなり高くなっています。環状二号線のそのあたりは崖のようで大規模な切り通しにより道を造成したと思われます。ちょうど消防署の辺りになります。
ポインタは工芸館、太線が切り通しと思われる区間、消防署は工芸館のほぼ向かいです。
ストリートビュー 名渡山工芸館

糸満屋(安謝)

安謝義理地原の海端には糸満人の小さな集落があったようです。

昭和初期に入ると崎樋川の北方、安謝ギリチ原付近に糸満漁夫が崎樋川の海にあったイナン干瀬の漁場を狙って3、4軒の集落が形成され「糸満屋敷」と呼ばれていた。
天久誌 p91

安謝川河口寄りの海岸近くには、糸満あたりの漁師が4、5軒の家を建てて(糸満屋)住んでいた。夏場には、アギヤーと呼ばれる漁師たちが30〜40人ほどやってきて、安謝集落にウミガネー(海の使用料)を支払い漁をしていた。期間中、彼らはここに家を借りて滞在した。捕って来た魚は当地でも売るので、売る人、飼う人で地域は賑わった。また、家賃は現金ではなくとってきた魚で物納されていた。家主は、その魚を売りさばき現金に換えたという。
安謝誌 p30


義理地原は安謝の端の方。ちょうど図の「A」の字がある辺りが糸満屋敷だったようです。
埋立以前は左側は海です。
安謝の原名(西側)
米軍撮影の浦添から見た安謝。
写真の右側辺りに住んでいたんでしょう。


イナン干瀬は伊奈武瀬と表記されている礁です。現在は埋め立てられています。
那覇の古海岸線
糸満漁夫と垣花漁夫の採る魚種の違いなども面白いんですが別の機会に。

那覇の細民

那覇の貧しい人々はどのように暮らしていたか。

久茂地の河原端(カーラバンタ)、譜嘉地の新村渠、湧田の先、若狭町の東より、牛マチの西側、久米村の堂小屋敷(ドウグヮーヤシキ)などは那覇の場末で細民街であった。河原端から新村渠にかけて、また久茂地川にそって美栄橋にかけて絣結職人が多く、美栄橋よりの新村渠には線香、粉挽き職人がいた。葉お香を板にのせマチに売りにゆくのは妻女の仕事で、麦粉売りは小桶を頭にのせ呼び声高く門口をふれてあるいた。湧田先の草履作り、新村渠の木かんざし作りは那覇名物で、つげの木地を手頃に裂いて荒削りのままざるにいれて女客をまっていると先の鋭い切り出しで削り鮫皮で磨きをかけ、旧藩時代一本5、6文で売ったようである。見世の前にはこのかんざしマチがたち客も商人も女ばかりであった。

那覇の細民街といえば松尾山の下にあった堂小屋敷は有名だが、妻女たちは波の上近くの屠殺場を漁って脂身の細切れを拾って夕市に持ち込んだり、夜明けに起きて松尾山、遠くは古波蔵あたりの松の根元を彫って「トボシ」を削り東市場の東角にあるトボシマチに持ち込む。これら細民は平日泥まみれにかけずり回ってやっと7、8銭にしかならない収入で日々の飢えをしのいでいた。
那覇市史 通史2 p180


トボシはトゥブシ(たいまつ)でしょうか。細民街としてあげられているのは以下。
 >久茂地の河原端(カーラバンタ)
 >譜嘉地の新村渠
 >湧田の先
 >若狭町の東より
 >牛マチの西側
 >久米村の堂小屋敷(ドウグヮーヤシキ)

ミンダカリ(新村渠)については過去記事参照
新村渠(ミンダカリ)
久茂地の川沿いで、小字河原端(カワラバンタ)から新村渠(ミンダカリ)に至る一円の地域は、長虹堤築造後、上昇した新地である。普門地(フムンジ)潟原ともいい、又は内潟原とも唱えられていた
七つ墓のある丘陵の裾あたりに美栄橋が築造されていたが、この美栄橋を渡ると、北側は埋立地の前島町、南側が久茂地町の新村渠(ミーンダカリ)で、この辺には、ウコーヤー(黒く平たい線香作り)だの表具師などが、軒をならべていた。

>妻女たちは波の上近くの屠殺場を漁って脂身の細切れを拾って夕市に持ち込んだり
スーヌサチバクチャヤーの側には屠殺場がありました。

また牛マチはわからなかったのですが西本町と西新町の境目辺りにはウシマチサガイ(牛マチ下がり)という道があります。図ではオレンジ色で示した西新町の角の部分になります。
堂小屋敷は久米村の中に水色で示した水路の右上辺りの一帯のようです。そばに東寿寺(堂小)という寺があります。
久米村市場
ナーファヌマチの隅にトゥブシ市があったようです。
ナーファヌマチ
左下の五つ並んだ小さな売り場の左から砂糖、トゥブシ(松明)、雑貨、果物、たこになっています。

粉挽きは方言でクンパーといいますが、那覇民俗地図では松尾山の側にはクンパー屋敷という名称が見えます。
クンパー /kuNpaa/
意味:製粉業。麦を製粉する。久茂地町内にあった。
http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN50648

製粉の専業のひとが住んでいたのかもしれません。

円山号

東町にあった円山号です。写真は下記アドレスのサイト様よりお借りしています。
大正時代に沖縄に在った企業 (28) - 昔の写真と資料 - Yahoo!ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/pusan_de/2842527.html

円山号

写真の建物はコンクリ造りになる以前でしょうね。場所は見世の前から孔子廟に向けて大門前通りを進んだ那覇郵便局の向かい辺りになります。
親見世
の斜め向かい、「便」の字がある辺りです。また大門前通りと線路に囲まれた一帯を仲毛(ナカモウ)と呼びます。

大門前通りの建物は、概ね明治末期から大正年代に断てられたもので、木造平屋が多く、二階建ては、初めは藤島洋服店のみであったが、あとで二十件余になった。1935年(昭和十年)平尾本店向かいに表三階一部四階の沖縄では初めての鉄筋立ての円山号百貨店がお目見えし、大門前通りの名物となった。山形屋に続く二番目の百貨店であった。
那覇市史資料編第二巻中の7、p298


関連:グダグダ 円山号/尾花仲次

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