忍者ブログ

グダグダ(β)

メンテナンス中/内容について一切保障できません
3/24アクセス解析再設置/不快に感じられる方はJavaScriptオフを推奨

MENU  ブログ内検索は左のMENUからできます

ENTRY NAVI

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

旧那覇の町名(東側)

旧那覇の町名(西側)の続きで久茂地川から向こう側の三町(美栄橋、上泉、下泉)です。
那覇(東側)
ちなみに西側はこんな感じ。


例によって那覇民俗地図を参考にしていますが道路などが見つけられないこともあってあまり正確ではありません。
現在の国際通りはほぼまっすぐですがこの当時は松尾消防署付近から曲がっています。
PR

立法院

現在の県庁の敷地にあった立法院です。
現在の県庁よりも緑が深くて敷地にも余裕があったような記憶があります。


写真はこんな感じ。左の方が現代に近く、右は1955(昭和30)年頃らしいです。
立法院立法院(1955)
那覇市内のバス(銀バス)は那覇高校前を通って立法院そばを通るのが多かったのですが、大概渋滞していてこの建物を横目で見つつうんざりすることになるわけです。あの頃は夕方どきに山手線並みの込み方をしていたことがあった(今は知らない)。

1952年4月1日、定員31人(任期2年)の議会として発足。
1953年12月26日、奄美地区が日本に返還される。
1954年2月1日、民政府布令第57号「立法院議員選挙法」改正第5号により、立法院議員の選挙制度が「中選挙区制」から「小選挙区制」になる。また、民政府布令第68号「琉球政府章典」改正第6号により、定員が29人となる。
1954年7月29日、立法院新議事堂が完成し、移転する。
http://ja.wikipedia.org/wiki/立法院


Wikipediaを参考にすると1955年は完成直後のようですね。この建物は「立法院議事堂」で、復帰後も「県議会棟」として使われていましたが1999年に取り壊されました。
あの辺りは面影はあまり残ってません。道路沿いの緑地にソテツやガジュマルの緑が見えてなかなか趣のある場所だったんですが新しく開発したところはどうも緑が薄くなります。
それと復帰前、というか琉球政府時代のことを忌むような風潮もあって保存にも消極的だった記憶があります。(復帰前からあった)那覇市役所ももうありませんしあの時代の遺産というのはほんとに少なくなって来ています。


余談ですが星克(ほし かつ 1905.4.9-1977.5.25)が最後の立法院議長だったんですね(1968年12月7日-1972年5月14日)。名字でわかりますが沖縄の名字ではありません。
この人は新安里屋ユンタで有名ですが共産主義政党調査特別委員会でも有名です。

沖縄県民は復帰の1972.5.15とサンフランシスコ講和条約(1952.4.28発効)の関係、9.7の降伏調印と6.23の牛島司令官自決のズレの理由もちゃんと憶えておきましょう。

フェーヤチガマ

泊の病院北、真和志字上之屋の西寺原にあったフェーヤチガマです。
フェーは灰ですからフェーヤチは灰焼きではないでしょうか。

詳細はわからないのですが参考にした真和志民俗地図では史跡・旧跡・拝所のマークがついています。さらにその北にはフェーリンというところが同じマークで記されています。
また上之屋民俗地図ではフェーリンはフルフェーリン、フェーヤチガマには括弧されて「5〜6コ」と記載されています。拝所や旧跡が5、6コあるというのは考えにくいので灰焼き窯というのは考えられるのではないかと思います。

沖縄ではテーブルサンゴを焼いて石灰を作り、それを使って漆喰(ムチ)を作りました。那覇市内では牧志のはずれの島小(シマグヮー)にムチヤーがあったのが確認できています。那覇市史では「石灰窯は昔は壷屋にあったので生石灰のことを壷屋の灰(チブヤヌフェー)と石灰(イシベー)という」という風に書かれています。

【追記】「写真で見る旧泊 崇元寺町 高橋町 前島町の変遷」の14ページには聖現寺の横に「石灰工場」「ヘーフチャー」という説明のついた図があります。

私が現在の那覇中学校の地点に会った那覇市立商業学校(旧制)へ、首里から約一時間くらいを要して、徒歩で通学していたころは崇元寺橋(安里橋)を渡って、牧志の一角に入ると、そのあたりは瓦屋(カラヤー)らしく、民家の軒下には、板のように薄いウミイサー(珊瑚石)だのムチ(しっくい)に混入する切り刻んだわら等が、こんもりと積み上げてあって、一種独特なその蒸れる匂いが、むんむんと鼻をついてきたものだが、大体この辺からは、昔、浮き道、あるいは長虹堤といって海中道路の形をなしていた。
琉球怪談選集 沖縄文教出版 1973


参考:グダグダ(β) ムチ/漆喰

塩田

前島の塩田です。
塩田

時期により違うようなのでざっとした図でしかないのですが、「写真で見る旧泊 崇元寺町 高橋町 前島町の変遷」の9ページにある「戦前の泊の図」から泊病院付近と新屋敷、那覇市史でアカチラバル(赤面原)が塩田であったという記述があったのでそれを加え、「わったぁ兼久」から「戦前の兼久位置図」を参考に兼久付近の塩田、そして「写真で見る旧泊 崇元寺町 高橋町 前島町の変遷」8ページの「明治初期の泊」から那覇潟原も加えました。
結果的には塩田であったことがある地域の図ということになるでしょうか。下図は昭和初期の那覇ですので塩田ではなくなっている場所もあります。


昭和5年頃の塩田
このころは泊塩田における塩の最盛期である。製塩業者は余暇悪天候を利用し安里川流域、潮渡川流域の泥田を開拓し、塩田の拡張を図った。
祖先親譲りの塩田を持たない次男・三男の人々は「当間モウシ」の小作人となり、赤面原で塩田するものもあった
那覇市史 資料編第2巻中の7 p273


この他の那覇潟原の範囲は下図である那覇地図(昭和4)をそのまま使っています。
古海岸線は下の図ですが塩田の地域はすべて海であったことがわかります。
浮島
昭和20年くらいの写真はこんな感じです。
兼久・前島

参考:兼久・前島・泊
参考:兼久(前島)
関連:グダグダ(β) 当間モウシ
関連:グダグダ(β) 当間モウシの事業

橋口マチグヮー/鶏市(トゥイマチ)

与儀の暮らしでとりあげた明治34年生まれの城間さんの証言にハシグチという名前が出て来ます。
橋口マチグヮー
那覇民俗地図では泉崎橋のそばに橋口マチグヮーという名前が見え、その横には鶏市というのも見えます。
城間さんの証言から引用します。

ハシグチ、東町、潟原マチグヮーなど、どこに売りに行くかは売る物によって場所が決まった。たとえば現在の知事公舎のところにあった芋畑からは、壷屋経由で潟原が近く、芋は特別洗う必要がないので畑からそのまま売りに行った。
また与儀の家近くの畑からは葉野菜が取れたが洗わなければいけないので洗い場に行き、そこから近い東町やハシグチの市場へ行った。歩きながら道々で売ることもあったが、市場はそこに置けば売れるためほとんどは市場で売った。
なは女性史証言集 p88


那覇市史には鶏市(トゥイマチ)の項目があります。

トゥイマチ(鶏市)
鶏市の売り手は、一人しかいなかった。離島の粟国、渡名喜から運ばれて来る足の長い雑種の「ハートゥイ」が多く、料理屋などがまとめて買っていった。成鶏は斤量で、ひなは見当で売買されていた。
那覇市史 資料編第2巻中の7 p286


粟国ヤール小、渡名喜ヤール小もあったようですから、常駐に近いような島の人が鶏市で販売していたんでしょうね。

那覇の旅館

大正5年の沖縄県人事録は人間の紹介がメインなのですが、料亭、商店、旅館などの紹介もされています。
沖縄県人事録で紹介されていたのを以前三つ引用しました。

大正館(旅館)
楢原旅館/風月楼
池畑旅館

那覇市史にも旅館の項目があり、天妃小学校校長の石野瑛の1915(大正4)年刊行した「琉球大観」に記した那覇における主な旅館をあげています。
また古老の記憶によると旅館ができたのは明治に入ってからでその数も西本町に1、2軒、高額で庶民は利用せずもっぱら大和からの人が利用していたそうです。
池畑旅館、浜崎旅館、川津旅館、薩摩屋旅館、楢原旅館、川本旅館、大正館(以上西本町)
森田旅館(通堂町)
那覇市史資料編第二巻中の7、p424


庶民はどうしていたのかというと間切宿、ヤール小(ヤードゥ小)を利用することになります。このヤール小も西新町、西本町、通堂町、東町、旭町一帯に分布していたようです。
この庶民宿の特徴は糸満ヤールグヮー、久米島ヤールグヮー、慶良間ヤールグヮーのように宿泊客が宿によってわかれていたことですが、理由はさまざまで、それぞれ商売上の都合や出先機関的性質なども兼ねている側面があり簡単には言えません。庶民がわざわざ那覇に来るというのが大仕事であることなどを考えれば今日のように旅客としての旅ではないことははっきりしています。
このヤール小については別項目で取り上げたいと思います。

山形屋向かい

Taking in the sights
A couple of GI's in Naha, Okinawa. From about 1970. Taken while I was stationed there for 18 months.

http://www.flickr.com/photos/ghb624/71024497/


国際通りの山形屋斜め向かい付近だと思われます。
自分でも露天や看板があったことを憶えています。

神々の深き欲望は1968(昭和43)年公開で、沖縄を題材として扱いロケ地は石垣島であったようです。
この写真の撮影時期もその頃でしょうか。新聞を当たれば確認できますが...
http://nihon.eigajiten.com/kamigami.htmhttp://www.tamajin.jp/degiorigi/?w=6&n=00055を参考にしました。

露天商はサングラス、ゴムひも、髪留め等々小さく雑多なものを商っていた記憶があります。考えてみると栄町や農連ちかくのたらいで魚を売るおばさん達もいつの間にか消えてしまっていますね。
現在の露天商はアクセサリーなどを売る若者ばっかりです。

※この写真も同じ場所ではないかと思うのですが確信はありません。
https://picasaweb.google.com/112682236649791042943/Okinawa196364#5526161912231506018

関連:グダグダ(β) 国映館・松坂屋間

楢原旅館/風月楼

沖縄県人事録(大正5)にある楢原旅館です。

楢原旅館
那覇区西本町一ノ一〇
同館は元浅田旅館にして、内外の信望すこぶる厚くして隆盛を極めたるものを、当地第一の料理店たる風月楼楢原鶴吉氏これを引き受け、爾来館内の諸設備を改良して該来客の便利を図るに努め、拮据経営日とともに信望を加えてついに今日の盛大を見るに至りしなり。(略)
しかも屋内には球戯場の設けありて随意にこれを使用せしめ、現今県下唯一の娯楽場として日夜隆盛を極めつつあり。


風月楼の経営者楢原鶴吉さんが浅田旅館を引き受けて楢原旅館にしたということですね。

風月楼 和洋料理店
那覇区通堂町三ノ一
明治33年5月、初めて現楢原旅館主楢原鶴吉氏が前経営者たる東家より譲り受けこれを経営するに至り、数年の後長子たる現主嘉平氏の手に移り、大正3年新築工事を起こし、(略)
料理は大阪流の包丁を見せて同楼の自慢なり。現時十数名の大小妓を抱え、東京その他より美しき仲居十数名を雇い入れて繁盛し居れるが、同店に於いて毎年二月催す初午祭には、芸者一同にて芝居を催し、近時同地に於ける年中行事のごとくなり居れり。


楢原鶴吉、嘉平親子が池畑旅館と風月楼を経営しているということです。風月楼は大阪風、芸妓、仲居ということから内地風の料理屋であったことがわかります。和洋料理店という名称は純粋な和食のみの料亭ではなく当世風の新メニューも出すといった捉え方でいいのでしょうか。
奥武山

【追記】「吾妻」と「東」は一応同じ読みではありますがどっちでしょうか。
東家本店・東家分店吾妻館の広告(明治28)を参照
風月楼は明治、大正、昭和(戦前)を通して、沖縄でたった一つの「ヤマト芸者」だけの料亭として高級社交場となり、上流階級の各種の宴会に利用された。御物城という風物詩的な景勝の場所であったことや、同楼の美妓連が世人の目をひき、名物の一つになっていた。
沖縄県史別巻

明治20年代に塚本某というのが、このみものぐすくに大和風の料理屋「吾妻館」を開設したが振るわず、その後楢原嘉平が譲り受け、名を風月楼と改称し、新しい経営に当った。
市民の友 1981年12月15日 第372号



左画像は沖縄県立図書館貴重資料デジタル書庫の「沖縄県人事録/楢原 翠邦編(大正5)」から切り出して画質調整、下にある説明は「風月楼の大広間及び全景」。右画像は左組写真にもある全景で画像は下記サイト様よりお借りしています。

風月楼 - 昔の写真と資料 - Yahoo!ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/pusan_de/2218418.html

× CLOSE

ブログ内検索

アクセス解析

カレンダー

05 2025/06 07
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30

最新コメント

[08/08 なちょうらーざ]
[07/19 shimoji]
[07/19 shimoji]
[03/21 2階の店舗の娘]
[03/05 福島敏彦]

× CLOSE

Copyright © グダグダ(β) : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]