沖縄県人事録(大正5)にある楢原旅館です。
楢原旅館
那覇区西本町一ノ一〇
同館は元浅田旅館にして、内外の信望すこぶる厚くして隆盛を極めたるものを、当地第一の料理店たる風月楼楢原鶴吉氏これを引き受け、爾来館内の諸設備を改良して該来客の便利を図るに努め、拮据経営日とともに信望を加えてついに今日の盛大を見るに至りしなり。(略)
しかも屋内には球戯場の設けありて随意にこれを使用せしめ、現今県下唯一の娯楽場として日夜隆盛を極めつつあり。風月楼の経営者楢原鶴吉さんが浅田旅館を引き受けて楢原旅館にしたということですね。
風月楼 和洋料理店
那覇区通堂町三ノ一
明治33年5月、初めて現楢原旅館主楢原鶴吉氏が前経営者たる東家より譲り受けこれを経営するに至り、数年の後長子たる現主嘉平氏の手に移り、大正3年新築工事を起こし、(略)
料理は大阪流の包丁を見せて同楼の自慢なり。現時十数名の大小妓を抱え、東京その他より美しき仲居十数名を雇い入れて繁盛し居れるが、同店に於いて毎年二月催す初午祭には、芸者一同にて芝居を催し、近時同地に於ける年中行事のごとくなり居れり。楢原鶴吉、嘉平親子が池畑旅館と風月楼を経営しているということです。風月楼は大阪風、芸妓、仲居ということから内地風の料理屋であったことがわかります。和洋料理店という名称は純粋な和食のみの料亭ではなく当世風の新メニューも出すといった捉え方でいいのでしょうか。

【追記】「吾妻」と「東」は一応同じ読みではありますがどっちでしょうか。
※
東家本店・東家分店、
吾妻館の広告(明治28)を参照
風月楼は明治、大正、昭和(戦前)を通して、沖縄でたった一つの「ヤマト芸者」だけの料亭として高級社交場となり、上流階級の各種の宴会に利用された。御物城という風物詩的な景勝の場所であったことや、同楼の美妓連が世人の目をひき、名物の一つになっていた。
沖縄県史別巻明治20年代に塚本某というのが、このみものぐすくに大和風の料理屋「吾妻館」を開設したが振るわず、その後楢原嘉平が譲り受け、名を風月楼と改称し、新しい経営に当った。
市民の友 1981年12月15日 第372号

左画像は沖縄県立図書館貴重資料デジタル書庫の「沖縄県人事録/楢原 翠邦編(大正5)」から切り出して画質調整、下にある説明は「風月楼の大広間及び全景」。右画像は左組写真にもある全景で画像は下記サイト様よりお借りしています。
風月楼 - 昔の写真と資料 - Yahoo!ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/pusan_de/2218418.htmlPR