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建設中の水上店舗

水上店舗

Images of Okinawa after World War IIの写真から切り出しました。
手前の橋がむつみ橋です。
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波の上プール(写真)

に波の上の海水プールを取り上げましたがImages of Okinawa after World War IIに写真がありました。
波の上プール/スケート場波の上プール
プール側の水上店舗、手前に少しだけ写っているスケート場、後方には雪の崎跡に作られた若狭小学校も見えます。
右図はゼンリン地図71年での波の上プールで「市営プール」と書かれています。

写真が掲載されているページのアドレスは下記。
http://digicoll.manoa.hawaii.edu/okinawa/Pages/viewtext.php?s=browse&tid=176&route=browseby.php&start=16&city=Naha&by=city&s=browse

現在は下記サイトなどで古い写真を見ることができるようになっていて、検索窓で「プール」と入力するといくつかヒットします。

古写真アーカイブ | 那覇まちのたね通信
http://naha.machitane.net/old_photo_list.php

丸善繊維商会

まず那覇1区12組ですが、地図の那覇1区の範囲に二ヶ所12と書かれた場所があります。
国際通りから平和通りに入ると14組、栄橋をこえた辺りから13組、桜坂にあがってゆく坂道の脇が12組です。それとは別に12と書かれた箇所があり、そこは平和通りから栄橋に曲がった右手のところです。
左図の赤い点が栄橋そばの12組、少し先にあるのが桜坂そばの12組です。

48、9年頃の平和通りであつかった写真の正面にあるのは高良時計店(右図のポインタ)で、高良時計店の向かいにある道(市場へ向かう道)が栄橋です。

丸善繊維商会
この写真は栄橋から平和通りを見るアングルになります。左に見えるのが丸善繊維商会、道の突き当たりが高良時計店です。48、9年頃の平和通りと同じ構図ですね。

昭和中期のゼンリン地図で確認してみると、平和通りから栄橋方向に曲がって二軒目の川の手前に丸善繊維商会はあります。写真には写っていませんが撮影者は橋の上あたり(か暗渠の上)から撮影していると思われます。

写真はImages of Okinawa after World War IIから。写真が掲載されているページのアドレスは下記です。
http://digicoll.manoa.hawaii.edu/okinawa/Pages/viewtext.php?s=browse&tid=188&route=browseby.php&city=Naha&by=city&s=browse

60年代の沖映通り 2

前にガーブー周辺で使った図ですが再掲。
ガーブ工事
右の図は64年の市制要覧からのもののようで沖映通りは工事中になっています。
Images of Okinawa after World War IIでの年度は68年になっていますが実際の撮影日時とはずれている用に思えます。その関係もあってタイトルを変更しました。

写真のオリジナルはこれで、オリジナルがあるサイトは下記。
http://digicoll.manoa.hawaii.edu/okinawa/Pages/viewtext.php?s=browse&tid=238&route=browseby.php&start=16&city=Naha&by=city&s=browse
Images of Okinawa after World War IIには作業が終わった写真もあります。

この写真が掲載されているアドレスは下記。
http://digicoll.manoa.hawaii.edu/okinawa/Pages/viewtext.php?s=browse&tid=239&route=browseby.php&start=16&city=Naha&by=city

60年代の沖映通り

Images of Okinawa after World War IIにある写真です。
This photo shows the Gabu River in Naha City prior to construction of a roadway over it, as a part of the Urban Development Program.だそうで、ガーブ川の暗渠化工事中の写真でしょうね。中央を横切る国際通りの向こう側にある水上店舗は建設中です。加工前の写真はこれ(Okieitori_gabu2.jpg)。

写真のあるページは下記アドレス。
http://digicoll.manoa.hawaii.edu/okinawa/Pages/viewtext.php?s=browse&tid=238&route=browseby.php&start=16&city=Naha&by=city&s=browse
写真は高い場所からなのでおそらく沖映から、赤い矢印の方向で写真は撮られているかと思います。

写真の左端ギリギリに南陽相互銀行が写っています。かばん屋の建物として憶えている人もいるかと思います。オリジナルの写真はでかすぎて表示できませんがこれ。1955年の南陽相互銀行は右の写真。
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nanyo_Mutual_Savings_Bank_Building_circa_1955.JPG
南陽相互銀行(1955)

この建物は今も残っていてGoogleストリートビューで見ることができます。
ビルの横に残っていたサインはここで見ることができます。
http://toriaezu.s19.xrea.com/nanyosogo.html
ビルの正面が入り口にならず、少し横から入ってゆく形は変わっていませんね。

Images of Okinawa after World War II

ハワイ大学のサイトに面白いページがありました。

Images of Okinawa after World War II
http://digicoll.manoa.hawaii.edu/okinawa/index.php


Home > Browse > city で Naha を選択すると復帰前の那覇の写真があります。
公文書館にも同じようなものがあったように思うのですがとりあえずメモ代わりということで。

第一世代の女子遊学組

金城芳子さんと外間守善さん(1924生)の対談から引用します。
先輩にお伺いを立ててる感じがなんともいえません(笑)。

芳子 そのグループは、組合教会以前の女子遊学生の集まりですよ。
外間 伊波先生のところで勉強する非常に熱心な女性として、近代に目覚めていた女性たちが集まったわけですね。
芳子 いいえ、この人たちは遊学生で、遊学生の仲間として伊波先生のところに来たわけ。
外間 集まった理由は、大正8年に伊波先生が『沖縄女性史』をお書きになるでしょう。あれの影響でしょうか。
芳子 そうじゃないと思う。沖縄の女性をヤマトゥに遊学させるのは、あの時代が始めてなんですよ。比嘉初子先生も、初子先生は女子大か。それから八重さんも女子大ですよ。それから瀬長良直夫人の与儀佳奈、東恩納寛惇夫人屋加マカーウクサンなどだな。あの人たちは、沖縄の女性として女学校までじゃなくて、遊学するんですよ。その始まりなんです。だから、それと伊波先生が東京で勉強していらっしゃるのと、遊学というところで結ばれているので、彼女たちが『沖縄女性史』を呼んで影響されたのではありませんね。
外間 なるほど、本土で近代的な教養をうけて返って来た人たちが、当時のときめく文学士伊波先生のところへ集まって来たということなんですね。
芳子 そう、そう。比嘉初子は伊波先生のことを「ウフーチ」(大兄さん)と言っていましたよ。そしてその女子遊学生たちが、一高女・女子師範に赴任して私たちの先生になったの。
沖縄を語る 金城芳子対談集 p19、20


年齢を整理してみます。
富原[旧姓比嘉]初子(1888-1974)明治21年生まれ
真栄田冬子(1897-1975)明治30年生まれ
玉城オト(1897-1993)明治30年生まれ
金城芳子(1901-1991)明治34年生まれ
新垣美登子(1901-1996)明治34年生まれ

話題になっている人達が明治の初め頃の人間で、伊波普猷が1876(明治9)年生まれで沖縄からの最初の留学組。金城芳子さんたちは大正期に学生だった人達で、外間守善さんは大正の終わり頃に生まれた人です。
話にのぼっている遊学組は大正期には卒業して帰ってきていた女子の第一世代で、学校の先生などの職に就いています。

伊波普猷周辺の人達の年齢差、そしてどういう関係だったのかということがこの対談では良くまとまっていて面白いです。

漬け物

沖縄では内地と同じ形での漬け物はあまり発達しませんでした。

浅漬けよりも長期保存のきく漬け物が発達した。中でも特産のさとう漬けは地漬(ジジキ)といわれ、戦前は大抵の家で作られ、ウチャワキ[お茶うけ]にも出された。食事中に漬け物を食べる習慣はないが、島菜や大根葉などの塩揉み程度のものは、おかずの一つとして出された。
地漬 大根、ゴーヤー、モーウイなどを塩で下漬けして脱水したあと、黒砂糖でつけ込む。漬け込んでいるうちに、黒砂糖が発酵して奈良漬けのように美味になる。
梅酢漬 下漬けをしたゴーヤーや瓜などを、氷砂糖と梅干しで漬けたもの。今でいうピクルスである。
アジケーナンムン ナンムンとは酒の肴とでもいうような意味。アジケー(シャコ貝)を下漬けしたあと、氷砂糖と唐辛子で漬けたもの。
らっきょう漬け、ニンニク漬け(甘酢漬) 氷砂糖と酢に漬けて長期保存用の漬け物にし、ウチャワキにも出された。
粕漬 酒造所の多かった首里では粕漬も作られた。
那覇市史資料編第二巻中の7 p200


黒糖漬の味に親しめれば家庭菜園で馬鹿みたいにゴーヤーができても大丈夫です(笑)。ゴーヤーはピクルスも意外といけます。

沖縄の漬け物といえば、大根、キウリなどを、土地の産物である黒砂糖で漬けたものが多い。いつしか黒砂糖は発酵してアルコールに変わり、南国的な漬け物になる。といって、もともと沖縄には、食事の時に漬け物を食べる習慣はなく、お茶菓子のかわりだった。
料理沖縄物語/古波蔵保好 p163


年寄りは冷めたお茶も飲みませんし、冷えた飲みものもあまり口にしない人がいます。昔は夏でも熱いお茶を飲んだはずなのでそういうときのお茶うけに漬け物など口にしていたのでしょう。

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