戦後の住民移動と定着先が現在でも名残を残している例として自治会があります。
安謝での自治会を調べてみました。
http://www.city.naha.okinawa.jp/jitikai/map_mawasi.htmより引用および編集しました。
天久・銘苅・安謝・泊・安里のハル名には岡野/住吉という原名(はるなー)はありません。
旧真和志市北部ハルナー図上の「旧真和志市北部ハルナー図」の原図は「真和志市區劃図」という真和志市誌に掲載されていたものを基にしています。真和志市誌には257ページに同名の「真和志市區劃図」で区画図が掲載されており、その図には真和志市における区割りと区名が掲載され過去の安謝には岡野区と住吉区が存在します。
ただし過去の存在地と現在の自治会の管理区域は少し違っています。

画面中央の安謝にある囲った部分は安謝小学校です。
住吉・岡野両区が存在した真和志市誌当時では現在の曙や港町などの埋め立てははじまっていません。図では水色の線の外側(海側)が埋め立て地になります。

那覇市のサイトからお借りしている図が良くわかると思います。
真和志市誌より引用します。
岡野区は、1946年10月、松岡(政保)氏が工務局長時代復興計画をなし、工務関係の資材置き場として旧ブタノール敷地4万5000坪を解放してもらい安謝資材集積所を作り、日本より輸入して来る民用の資材集積を為し、さらに製材工場を造り、規格住宅を各地区に配給するため工作隊二百名以上の作業員が5、60の住宅を持ち、外に合宿所を作って、移住して以来、この工作隊の関係者が次々と移住して今日の部落を形成するようになった。岡野という名称も、岡の上の野原に自然部落が出来たので岡野と称えるようになった。
住吉区は、旧那覇市・垣花・住吉町の人達が、垣花全体が軍に接収され、土地を失ったので、安謝の海岸一帯に部落を作り、移住し、旧名称のまま住吉区と唱えることにしている。
真和志市誌 p275両地区の成立は岡野区は復興のための工作隊と家族の移住、住吉区は土地接収から移住という理由のようです。
また隣接する安謝・天久ともに古い集落のため独立性が高いのでしょう。
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