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お知らせ

ninja が新しく要求している連絡先(メールアドレス)を確保できないため、このブログは将来消えるかと思われます。現在は違反状態になっているようです。
消滅がいつごろになるかはわかりませんが、違反状態を放置するとも思えません。

また多忙の為、移転などの作業も時間が取れそうにありません。
寄留商人や真和志については別の場所でまとめなおしたいなと考えています。
それでは。

*一部非公開にしてあった記事を再公開します。多少問題があるものもありますがご容赦。
*場所がわからなかった「香港通り」は壷屋でした。
*「なみさと百貨店」は70年代後半に家事で全焼したようです。
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訂正

訂正はこちらに追加してゆきます。(誤字訂正を除く)
戦後を扱った記事は一部を除いてしばらく非公開にします。(1年くらい)
那覇市の区を大幅に見直す予定があります。
メンテナンスを実行中です。メンテナンスは断続的に行っています。

更新を停止します(2012.10.05)

沖縄訓盲院・私立沖縄盲学校・県立代用私立沖縄盲学校・沖縄県立盲聾唖学校

戦前沖縄の盲学校について沖縄大百科事典を参照してまとめてみます。

沖縄訓盲院
宮崎県延岡市出身(大分盲学校卒)の高橋福治によって沖縄で最初に創設された盲人のための私立訓練施設。沖縄県庁宛に出した質問状により沖縄に盲教育が皆無であることを知り、1920(大正9)年3月に来沖。同年4月那覇区公会堂の一室を借り盲人塾(沖縄訓盲院)を開始、この塾は5ヶ月余公会堂にあった。その後は石門通り、善光寺坂の民家に移り、21年5月に天妃町の大田有功宅の一部を借用。33年に真和志村松尾に移転。
24年4月には私立沖縄盲学校として正式認可されている。

私立沖縄盲学校
1924(大正13)年4月に文部大臣から正式認可された沖縄県最初の私立盲学校。
学校経営は国・県・市からの補助金及び一般篤志家からの寄付金でなされた。生徒数14人(男12、女2、本科2学級)で、授業科目は修身・算術・国語・按摩術など(1930)。教員は高橋福治校長ほか2人。
1933(昭和8)年4月真和志村松尾に校舎を移転。40年4月には県立代用私立沖縄盲学校、43年4月に沖縄県立盲聾唖学校(沖縄県立聾唖学校と合併)と改称し県へ移管された。
45年2月戦災のため閉校となる。


戦後は1951年に沖縄盲聾唖学校として首里石嶺に開校したようですので、松尾に学校があったのは1945年までだと思われます。
高橋福治さんについてのページがありましたので引用します。

高橋は生前、盲学校建設のための土地を求め、1960年、自己の所有地811坪を盲人福祉協会寄贈した。沖縄が本土に復帰して2年後の1974年3月、寄贈された土地に、地下1階地上4階建て(延べ床面積900平方メートル)の「沖縄盲人福祉会館」が建設された。高橋はその功績が認められ、1974年5月にヘレンケラー賞を受賞したが、同年12月、79歳でこの世を去った。
高橋福治|宮崎の偉人

http://www.0503ak1025.net/zz-takahasi.html


この「沖縄盲人福祉会館」は現在の沖縄視覚障害者福祉センター(松尾2丁目15番地29号)であるようです。戦前に松尾に移動してから県立になっていますので、松尾の土地は高橋さんが購入したもの、戦後は1951年に石嶺で沖縄盲聾唖学校が開校していますので、学校跡地は盲人福祉協会に寄付されたのだと思われます。

現在の「沖視協」の前身は、世界第二次大戦以前には、「沖縄盲学校」内に「沖縄盲人保護協会」が発足されておりました。
---
旧会館は昭和49年に「沖縄盲人福祉会館」として、(元)、「沖縄盲学校」の跡地に建設し、開館されました。
1.沖視協創立50周年記念式典・新館落成式によせて (抜粋と編集)

http://okishikyo.net/tenji/paper_200811.html



以下余談ですが、この土地は戦後の一時期消防署だったのではないかと考えていますがよくわかりません。

http://www.city.naha.okinawa.jp/fire/soumuka/11_1.html

カフエーすヾめの独立広告

1927(昭和2)年11月11日の沖縄タイムスから。

独立御知らせ
従来は高安高俊君の援助の下に経営して居りましたが県下多事の際同君の活動にまつもの多き為め当カフエーは私だけで経営する事になりました。御客様とコツクの直接の取引は料理の第一要件であります。向後○層の努力はの価格質量上に表れます。一層の御引立を願ひます。女給も揃つて御待ちして居ます。
和洋琉御料理
辻前之毛花崎通り カフエーすヾめ
コック 経営 伊是名朝義
△和洋料理 三十銭と五十銭
△懐石料理 五十銭均一
△日本料理 一品五銭以上十五銭
△洋  食 十五銭以上三十銭
●離室は十五六名の会食が出来ます


調べてみると高安高俊は芝居関係で名前が出るようですが「日報の沖縄人名録 昭和12年版」では料理業として「天狗 高安高俊 辻町1ノ77 電109」とあります。
伊是名朝義は社会主義者のようです。「辻前之毛花崎通り」の花崎は前ノ毛通りにあった花咲のことでしょう。

忍者アクセス解析でのトラッキング

このブログでは忍者アクセス解析を設置していました(3/13削除)。
忍者アクセス解析は去年から提携会社によるトラッキングクッキーが使用されており、その旨も使用者には告知されていたのですがちゃんと読んでいませんでした。これは自分のミスであり、閲覧者に無告知でアクセス解析経由でのトラッキングを行わせていた責任は自分にあります。
申し訳ありませんでした。

BLACKIE-SAN

コメントで50年代撮影の動画を教えていただきました。この動画が凄かったのです...
撮影者のBLACKIEさん、投稿者のwbm2012さんに感謝を。
【更新日時/3.19 18:25】

Rx Mid-1950s 16mm VINTAGE NAHA CITY, OKINAWA "BLACKIE-SAN" svFilms 480px 1.avi
http://youtu.be/_Rx3aKF3EM0


「那覇市議会史関係略年表(稿)」によると54年の那覇市議会議員選挙は9月12日で真和志市も同日に選挙がありました。市内風景に写っている選挙の張り紙はこの選挙のものではないかと思います。
※冒頭の「リウキン」そばにある横断幕「比嘉佑直」、6'56"あたりの「浦崎唯治」の名があり、「那覇市議会史関係略年表(稿)」には54.10.1に選任された懲罰委員会副委員として「比嘉佑直」、10.4の監査委員に「浦崎唯治」の名がある
「那覇市議会史関係略年表(稿)」によると牧志通り開通式はこの年の12月5日、開始日はわかりませんが、53年2月27日に「牧志大通りの工事に関し、土地収用法適用を認可」とありますので工事期間は53.2〜54.12の間に収まる期間だと思われます。
「沖縄・国際通り物語」には国際通り拡張工事が検証されていますが読む時間がないため考察はここまでにします(残念)。

自分の推測する撮影地点、店舗名などは動画中から読み取れる文字と同時期に撮影された写真に存在する店舗の位置の突き合わせや資料類から推測しています。
これらにプラスして影がどうなっているかをつきあわせることで場所特定の補強材料とすることができるように思いますが時間がないため断念。ただ影の短さからすればお昼あとのそれほど長くない時間で撮影されたという推測は妥当かと思います。

撮影場所は神里原から丸国マーケット前、浮島通りから国際通り手前、元山形屋周辺から三越前、平和通りに入り公設市場衣料部前三叉路、そしてその周辺、となるかと思います。
撮影は神里原〜丸国は徒歩、浮島通りは車に乗っての撮影(スピードが違う)、国際通りは一箇所に留まって周囲を撮影している動画がいくつかあるのでおそらく徒歩、平和通りも同じく徒歩だと推測します。動画が連続して撮影されているのは浮島通りのみで他は立ち止まっての撮影が集合した形になっていますが、これはスナップショットのようにとられたものなのでしょう。しかし動画内に写っている店舗などの位置関係から推測する撮影位置をマッピングしてみると歩きながら撮影していった様子がうかがえるものとなっています。

浮島通りの動画も風景がジャンプする箇所があり、その箇所前後で連続性を直接は確認できませんが、動画内で確認できる店舗名から推測すると連続して撮影していることはあきらかだと思われます。
50年代の資料とつきあわせてもわかる店舗は少なく、わずかに読み取れる看板の文字などから撮影地点を推測することしかできません(今のところ)。これは浮島通りの写真資料が少ないことからくるのですが、現状では楽観的に資料が出てくることを待つのみです。

浮島通り動画の最後あたりにはジャンプとともにどこにいるのかわからなくなってしまいます。ジャンプ後は道がカーブしていってるので浮島ホテル周辺なのではないかと思えるのですが、左手に白い丸屋根が見えていてこれが世界館(国映館)ではないかという懸念があります。浮島通りからすれば世界館は右手に見えるはずなので矛盾してしまうのですが、この区間は動画内から店舗名などの特定ができていません。
これを解決するためには「白い丸屋根」の正体解明、最後の区間の写真との突き合わせ(見つけられていません)などが必要になるかと思います。
影の方向から個人的には浮島通りをそのまま直進して国際通り手前までで撮影を終了(そのあと動画は国際通りにジャンプ)したのではないかと考えています。

国際通りは後年も残るビルが撮影されているので場所の特定は容易です。
建設途中や未建設の建物から撮影日時が推測できるかと思いますが自分は解りかねています。
平和通りは残っている写真が多数あるため店舗名などからの特定ができます。
問題は三叉路からの各シーンでこれらは確定に至る証拠(写真など)が確認できていません。背景や横断幕などから推測はでき、推測も妥当だと思えるのですが、平和通りの店舗のようにばっちり写った写真と一致するような箇所はありません。
このあたりどの程度まで詰めればいいのかというのも難しいものがあります。
最後の子供が映った箇所は残念ながらまったくわかりません。

動画をご紹介頂いた方も検証作業を行われています。

http://www.zukeran.org/shin/d/2012/03/12/blackie-san-video-is-great/

ここでの検証に複数の方から多数の御教示をいただきましたことに感謝申し上げます。
そして動画撮影をされたBLACKIEさん、動画をデジタル化しアップロードしていただいたwbm2012さんにも改めて感謝申し上げます。
このサイトでは過去に米軍属撮影の写真をとりあげていて、その中でBLACKIEさん撮影の写真も多数取り上げていましたが気がつかずにいました。撮影者やサイトオーナーに気を払わなかった自分が悪いのですが、BLACKIEさんは戦後キーストンスタジオでカメラマンとして多数の写真を残されていたようです。
動画でも窺えるのですが人懐っこい視線をもった方だなと感じます。

http://blackie-okinawa-photography.rememberingokinawa.com/page/blackie_the_photographer

不明部分は残ったままですが自分の検証作業はここで中断します。
検証ログは折り畳んでありますので興味のある方はどうぞ。

琉球風画帖

「琉球風画帖」という絵葉書が作られているようです。
作者さんのサイト。

琉球風画帖ラビリンス 琉球風画帖は水彩画の絵はがきです
http://47678hn.blog.fc2.com/


http://47678hn.blog.fc2.com/page-1.html

手前が前島で道の向こう側が牧志、右手が七つ墓でその前の橋は美栄橋でしょうね。
過去記事からこの様子がうかがえるものを再掲してみます。
関連:グダグダ(β) 島小(前島)
関連:グダグダ(β) 長虹堤周辺の地形

今はこの辺一帯に民家立ち並んでいるが、最近までも左右田圃の相田を4、5尺の高さで走り、浮道の面影をとどめていた。
南島風土記 東恩納寛淳

私が現在の那覇中学校の地点にあった那覇市立商業学校(旧制)へ、首里から約一時間くらいを要して、徒歩で通学していたころは崇元寺橋(安里橋)を渡って、牧志の一角に入ると、そのあたりは瓦屋(カラヤー)らしく、民家の軒下には、板のように薄いウミイサー(珊瑚石)だのムチ(しっくい)に混入する切り刻んだわら等が、こんもりと積み上げてあって、一種独特なその蒸れる匂いが、むんむんと鼻をついてきたものだが、大体この辺からは、昔、浮き道、あるいは長虹堤といって海中道路の形をなしていた。
高さが約2メートルに、道幅がほぼ3メートルぐらいある浮き出た道路の北側は海水にひたされ、干潮時には、それが塩田に早変わりするし、南側は一面陥没した畑になっていて、この辺一帯、昔は海であったという名残りをとどめていた。(中略)
七つ墓のある丘陵の裾あたりに美栄橋が築造されていたが、この美栄橋を渡ると、北側は埋立地の前島町、南側が久茂地町の新村渠(ミーンダカリ)で、この辺には、ウコーヤー(黒く平たい線香作り)だの表具師などが、軒をならべていた。
琉球怪談選集 沖縄文教出版 1973年


戦前には道のそばは完全に陸地化して島小(シマグヮー)と呼ばれ住居がたちならんでいました。
この絵の時期というのはいつ頃になるのでしょうか。

Map #6 Naha city center(作業中)

http://www.rememberingokinawa.com/photo/1967_Business_maps/05の「Map #6 Naha city center(1967)」に日本での呼称をつける作業をしています(更新2/17)。


*1 琉球生命安里別館(安里102)/ゼンリン69年
*2 Takara Record Shop/丸高レコード(コメントで教えていただきました)
*3 不明/Izumizakiまでは読める/泉崎病院は1967(昭和42)年
*4 岸本ビル/ゼンリン69年
*5 整備工場?
*6 美栄橋郵便局/ゼンリン69年
*7 古堅兄弟社/ゼンリン69年
*8 大東糖業ビル/琉球セメント[Ryukyu Cement Co.]、大東糖業[Daito Togyo Co.](コメントで教えていただきました)

58号線沿いは別にとりあげます(2/17)。
*a ゼンリン69年には「各種保険損害査定鑑定」とある
*b ボウリング場のはず

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