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那覇への引き上げ

北部への疎開と収容所生活をへて那覇市民は那覇へ戻ることが出来ましたが取り残された人もけっこういたようです。その辺をご紹介。

戦後最初の那覇復帰者であった先遣隊とその家族らが壷屋の一角に入植した直後、つまり区制時代当時、那覇市民の島内分散疎開状況は次の通りであった。
大宜味村 1500
羽地村 3700
糸満町 1500
久志村 2200 ※名護市東部
金武村 5700
胡差 1050
前原 1100 ※勝連半島にあった
知念 730
石川 3800

それに壷屋復帰者(1279)を入れて合計22559人。生活力旺盛なものが先遣隊を負って壷屋に移動してきて昭和24年8月頃までには地方疎開者23685人のうち1447人が那覇に復帰した。それでもまだ各疎開地に那覇市民が残留していた。
首里市 681
東村 53
国頭村 67
美里村 410
与那原町 96
久志村 317
中城村 33
北中城村 238
石川市 4317
具志川村 4321
計10533人が
残留したままだった。
ことに石川市や金武湾を中心とする具志川村などでは戦後六年たっても那覇市民が相当の群落をなして居住していた。
那覇市史通史編2 p706(要約)


1951年(S26)でも一万人以上が元の居住地域外に留まっていたということですね。続けて別箇所から引用します。

昭和21年1月から九州在住の宮古・八重山住民の送還がはじめられ、同年8月から沖縄本島とその周辺諸島への送還がまじまり、同年年末までに疎開者、復員者、外地引揚者その他11万余が沖縄に帰ってきた。
これら本土からの引揚者で各市の人口が急激に増え、ことに石川市や前原市などは那覇市民が群落をなすようになった。
(略)
那覇市はその後戦後出来たみなと村をはじめ、真和志村、小禄村、首里市を合併して人口30万の都市となった。しかしその影には戦時中地方に疎開したまま27年後の今日まだ那覇に復帰できない旧那覇市民の存在は忘れられがちである。
那覇市史通史編2 p735-736(要約編集)


戦後27年だと1972年ですから復帰当時でも戻れなかった人がいたということですか。しかし72年だとそれなりに発展しているので戦中移動した先に定着してしまったと考える方が適切かとも思います。
戦後の那覇は離島出身者をはじめ各地の人達がどっと入り込んできていますからかなりの住居難が続きます。埋立などもその対策として行われたはずですが土地接収などもあり後手にまわってしまったのは否めません。現在でも割当で住み着いた人達たちの居住区域の開発や事実上のスラム解消などはまだ終わっていません。

参考:真和志南部の解放順序
参考:旧那覇地区の解放順序
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