カテゴリに寄留商人を追加。
松田橋で名前のみ残った「松田通信」(人名)ですが那覇市史通史編2から要約しておきます。
1871年(明13)沖縄県最初の銀行「国立第百五十二銀行」が那覇東町の寄留商人、村田孫平宅に設立された。同銀行の貸し付け業務は寄留商人が主で特に小口の貸付によって資金援助をしたと言われる。
国立第百五十二銀行の設立許可は維新以来物資高騰で困窮している士族を救済し動揺を抑えるため各県に国立銀行を設立しようとする新政府の方針だが、沖縄県では本県士族の授産事業にではなく寄留商人に多く貸し出された。同銀行役員は銀行経営のかたわら銀行をバックに事業を興し預金を時分の経営する事業に流すという背任行為を行っており県民からは不評をこうむった。
(第百五十二銀行の)取締役の1人「松田通信」は仲島一帯の埋め立て事業に手を出して、下泉町から東町に通ずる木橋(松田橋)のそばに屠殺場を建築し、豚肉一金を三銭まで下落させ、那覇における屠殺業の独占を計ろうとした。地元業者は「松田さんは豚の神」とやじって反対運動を起こしたといわれる。
1874年(明16)寄留商人団の便益を図るため資本金25万円を擁する「第百四十七銀行」の那覇支店が開設され国庫支出の代理業務を獲得、寄留商人の後盾となったり、三重城・西新町二丁目の埋め立て事業にも手を伸ばした。
那覇市史通史編2 p175という松田さんですが下のような結果に。ちなみに橋は仲島大石付近にあったようですが現在はありません。
松田は松田橋のたもとに屠獣場を設けたがこれに失敗。いろいろの事業にも失敗したため沖縄から姿をくらましたがその名ばかり「松田橋」として残った。
那覇市史資料編第二巻中の7、p400下図の右にある細いのが松田橋です。

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