上江洲由正さんの「大同火災と私の人生」から安里に桑畑があったという箇所を引用します。
父が戦前やっていた帽子製造業、沖縄製帽はすでに復活していた。沖縄製帽は、いち早く昭和21(1946)年に合資会社として再発足し、真和志村安里の一角に店舗と工場を構えていた。
沖縄戦で無一物となった焦土に、沖縄の産業を興そうとアメリカ軍政府の助言もあって安里の一角に帽子製造、漆器、織物といった業種が集まり、仕事を始めたといわれる。戦争前、牧志街道は新県道と呼ばれ、数少ないコンクリート舗装された道でその北の端にあたり、近くに県営鉄道の安里駅などがあったが一面桑畑であったところである。私が帰郷する頃、安里の桑畑は蔡温橋通りと呼ぶ問屋街に大きく変容していた。那覇市の旧市街地の復興がおくれ、市の中心街が国際通りに移ったため、卸問屋が出現したのである。
この畑は片倉製糸の社有地でマユを採取するために桑の木が植えられていた。私たち沖縄製帽など、戦後の初期にこの土地に入ったのは割り当て土地といって過渡期に沖縄で実施されていた方法により借地していたところである。
私たちは、借地人組合を結成して所有権者である片倉製糸と交渉し、土地を買い取ることに話し合いがついた。アメリカの施政権下にあって、日本本土の企業が沖縄へ進出するには、外貨導入審議会を通さなければいけない。これがなかなかうるさい。業種の制約もあり、片倉製糸側は入ってこれず、社有地の管理もむずかしく、財務上放って置くわけにもいかず、私たちの要求に応じる形となった。坪当たり50円(B円)ぐらいだった。
大同火災と私の人生/上江洲由正 p83〜85(抜粋と編集)上江洲由正さんが沖縄に戻られたのは昭和27(1952)年です。

図中の沖縄製帽の位置は「沖縄主要地主要商工年鑑(1952)」、その他は「戦前の牧志民俗地図」によるものです。牧志ウガンと国際通りを挟んだ向い側の壺屋小の位置に「製糸工場 新あやべ」、安里川を挟んだ位置は「片倉製糸 桑畑」となっています。桑畑には括弧されて「灰焼ガマ 大正年間」とも書かれていますが灰焼ガマ(おそらく漆喰)から養蚕のための桑畑に転換したという事だろうと思われます。
この桑畑がどのあたりまであったのかという資料は見つけられていません。
また那覇と真和志の境界になっている安里川から東側の国際通り沿いにはほとんどなにもなく(参照:真和志民俗地図)、一高女の写真で周囲が写っているものを見てもなにもありません。おそらく国際通りの蔡温橋から向こう側には桑畑が広がっていたんではないかと思いますが確証はありません...
参考:
グダグダ(β) 那覇の片倉製糸PR