このブログの扱う主な範囲は旧真和志市で、そのほかに旧那覇と周辺区域も扱います。扱わないものは首里士族(屋取を除く)及び首里、そして琉球王朝です。
ようするに庶民史を扱いたいということになります。
旧真和志地域は純農村地帯で百姓と屋取住民・寄留民しかいません。町百姓ではない百姓は土地ごとの特色を除けばどこもあまり変わりがありません。以下浦添市史から引用しますがその辺をわかっていただけると有難いです。
百姓にとっては一日の大半を野良仕事をしているわけだから、男女とも普段着・仕事着の別がなく、晴れ着以外は殆ど仕事着である。持ち合わせも数少なく、晴れ着や外出着であったものを、長年着古してしまったものは普段着におろして、これを「フィージーアチャー」といい、さらにそれがくたびれてくると、すり切れている部分を繕って仕事着にし、これを「フクタージン」という。
封建時代には、士族階級はあまり活動的ではないので、衣類の形態も、着丈が長く、袖もウフスディーという広袖の優雅なものであったが、百姓平民は活動的な仕立てであった。昭和初期まで琉装の名残があり、農民はたとえ晴れ着であっても、袖丈や袖幅、着丈も短く、それは働くことを常とした人々の、生活の機能性から生まれた形態であろう。
はじめから仕事着としてつくる場合もあったが、それは大方が自家製のアラバサーといわれる粗芭蕉で、幹の外皮からとれる太い糸で織った布である。その他、残り裂をはぎ合わせて仕立てた着物もあったが、これをチジャーハジャージンという。
大正から昭和初期に書けて、日本本土から安物の機械織反物が大量に移入され、那覇の東町(ヌヌマチ)に出回った。それは深めの籠に立てて売っていたので、バーキヌヌと呼ばれた。明治末期までは自給自足をしていた衣料も、忙しい農民の普段着は安く手間のかからないバーキヌヌにとって変わった。しかしそれは、安かろう悪かろうの例にもれずうすっぺらで長持ちしない布であったので、晴れ着などの良いものは自分で織ったり、またゆとりのある家では特別に織ってもらったりした。
浦添市史第4巻資料編3 p181、182(省略編集)戦前の市場を撮った写真などではつんつるてんの着物を着ている人がいますがあれが農民の普段着です。那覇の市場は多く那覇士族の妻女が商いをしていますので違いがあります。
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