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開南通り(50年代初期)

与儀十字路から開南バス停までの区間です。

ポイントになる箇所は赤ポインタで示した旭湯とそのそばにある橋(黒)、上の方にある那覇劇場(赤)です。開南バス停で左折方向が樋川大通り(現せせらぎ通り)、直進方向が中央通り、右に下りてゆく道が新栄通りで、開南から農連に直接向かう道はまだできていません。

沖縄主要地・主要商工年鑑(1951)での開南通り(第十五図表の一部)。

1は開南方向から。宮城靴修理所(角)、新垣商店、田場組、ひが自転車店、道をこえていずみ簡易宿、小橋川商店、新興簡易宿、赤嶺自転車店、●板金加工工業所(●は○に三)
2も同じく開南方向から。
崎浜板金加工所、朝日活版所、八重山貿易商事那覇出張所、井筒屋食堂。道をこえてだるま理容館、琉球○天○事務所、開南木材会社、旅館新栄、料亭新栄、下地○○所(角)。道をこえて宇地原商店、旭湯、●食堂(●は○に奥)。橋をこえて新垣理髪館
3は大通り側から島袋写真館、●食堂(●は○に玉)、川柳簡易旅館、●工○所(●は○に二)、●木工所(●は○に二)
橋の名前は新栄橋と読めるのですがよくわかりません。

続いて52年版。

1は開南方向から新垣茶舗、寿屋、さくら写真館、比嘉菓子店、ふたば屋、和泉旅館、小橋川商店、九区販売店、新興簡易宿、少し離れて丸友商会 合資会社、金城商店(角)。道をこえて幸地原薬房分店、ヤマシロ洋服店、新栄食堂、糸数理髪館、大江[太江?]洋服店(角)
2は開南方向から仲村金物店、又吉表具店、朝日印刷所、高江洲板金工業所、松屋洋服店、八重山貿易商事、永島商店、井筒屋食堂、正視堂、當山漆器店、開南木材合資会社、新栄旅館、料亭新栄。道をこえて旭湯(角)、●食堂(●は○に奥)
3島袋写真館、●食堂(●は○に玉)、川柳旅館、●工業所(●に○に二/角)、●木工所(●は○に二/角)
4ヨギ試験場、萬来食堂、浜千鳥食堂、岡野鋳物直販店

2011年6月に旭湯は店じまいしました。
沖縄タイムス | [黄金人]番台の笑顔60年 那覇「旭湯」最後の日
店主・上原フミ子さん
戦争で家族失い 客との絆が癒やし 「ユンタクは宝物」

http://www.okinawatimes.co.jp/article/2011-06-02_18675/
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樋川大通り(52年)

左図は沖縄主要地主要商工年鑑(1952)の第三十図、右はその範囲を示したものです。左図は右が北になってますので注意。

範囲は開南バス停から那覇高校までです。
1は那覇高校側から丸善木工所、上原高等洋服店、浜千鳥醸造元仮営業所。横道に入って左側に又吉写真館、奥の突き当たりに古謝医院
表通りに戻って○糸店、勉強堂文具店、宇地原薬房、南方貿易株式会社、樋川湯、旭洗濯所、三協ラジオ店、儀間ふとん店、東洋商事株式会社那覇支店、昭和バス糸満線のりば、久田理容館、山洲商会、○輪舎支店、日渡ミシン店。そして沖縄バス 糸満線のりば、こえて角に中央食堂
2も同じく那覇高校側から。
金城木工所、萬福食堂、松山書店、比嘉塗工舎、球屋商店、天龍食堂、いとす自転車店、金太郎食堂、友寄はきもの店、那覇写真館、浦崎板金加工所、開南書店
道をこえて大丸商店、模型教材の店 小渡商店、又吉楽器店、上原歯科、塩谷看板店、仲村金物店

上右図の青ポインタの位置には今も古謝医院があるようです。

千歳橋通り(50年代初期) 3

左図は沖縄主要地・主要商工年鑑(1951)の第十四図表、右はその範囲を示したものです。左図は左が北になってますので注意。

1おとみ屋(角)、ニコニコ食堂、仲田商店、つぼや食堂、●仲宗根商店 お菓子類(●は○に五)、道奥に比嘉商店、戻って角に新嘉喜商店、少し離れてかなめ旅館、かなめや食堂、千歳食堂
2宮里商店(角)、●丸玉商店(●は○に玉)、比嘉商店、少し離れて宮城商店
3は角に丸玉製パン所、少し離れて上原食料品店、●大城商店(●は○に大)、沖縄物産合資会社、チドリ食堂、●上原商店 食料雑貨(●は○に上)、●新垣商店(●は○にア)

続いて52年版。
1仲田商店、宮城商店 日用雑貨、新嘉喜商店、村田商店 果物類、かなめ旅館、儀間商店 各種鋸業、千歳食堂
2宮里商店、照屋商事、いなみ 食堂 理髪館、金城洋服店

50年代初期の具志堅醸造所

沖縄主要地・主要商工年鑑(1951)の第十九図表。図は左が北で一番下が330号、右下の交差点が大浜第二病院があったところ、右上に進むと真和志村役場になります。
右図を縦に走っている道が真和志郵便局通りで、通りの2と書かれた側に「具志堅醸造所」という名前があります。

真和志村役場前通り(あけぼの通りと呼ばれることもあったようです)を神里原方向に左折する角付近には真和志郵便局がありました。

沖縄主要地主要商工年鑑の51、52年版ともに赤で示した位置には松田兄弟社(現松田木工所)があります。隣りではありませんがそのすぐ近くに「具志堅醸造所」がありました。
赤丸宗社長であった具志堅宗精の自伝「なにくそやるぞ」にはこう書かれています。

そこで父祖伝来の味噌醤油業をはじめることにした。資本金は3万円(B円)、出資者は7名、資金も琉銀から各自借りて、これを出し合った。それと琉銀からの借入金275万円で、準備は完全にととのった。
場所は真和志郵便局向いの寄宮で、具志堅味噌醤油合名会社として発足した。
グダグダ(β) 赤丸宗/黒丸宗 2


赤丸宗と黒丸宗は戦前垣花にあった具志堅味噌醤油をルーツとする会社で、両社の社長は兄弟です(赤丸宗・宗精、黒丸宗・宗演)。
黒丸宗は後年は現寄宮市街地分譲住宅の場所にあったのですがいつ頃移ったのかは調べられていません。

親泊酒造工場・第二大城酒造所

沖縄主要地主要商工年鑑の52年版から。
左図は第四十図を模したもの、右図は左図での範囲を示したもの。

結論から先にいうと、2が親泊酒造工場、4が識名酒造所、5が第二大城酒造所、6が酒屋新垣、7が仲本酒造工場です。このうち5の第二大城酒造所の場所は正確に特定できていません。
2の親泊酒造工場の頭には下の○に元のマークがついています。


1は「沖縄運輸第一修理工場」、60年代の地図では「沖運修理工場」。
3は「三原セメント瓦工場」で、60年代の地図では「大湾セメントブロック」となっています。51年版では三原セメント瓦工場のそばに「三原区5班 大湾朝○」と付記されていていますので名称変更したんでしょう。

親泊酒造工場は52年版の図からすると三原セメント瓦工場と橋を間にして斜めに対面していますから現在の交番向いのはずです。
識名酒造所は当時の住所から場所がはっきりしていますが、第二大城酒造所は52年の図を見ても正確にはわかりません(51年の図も似たようなもんです)。識名酒造所のある角近くの道がどうなっていたのかはっきりすればもうすこし正確に特定できそうです。

新聞資料による旧慣制度撤廃後那覇の地図作成

面白かったのでご紹介。

新聞資料による旧慣制度撤廃後那覇の地図作成 : 近代期那覇の復原的考察(歴史・意匠)
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006974616


画像は論文からスクリーンショットで作成。潰れちゃってるとこがあるので興味のある方は原文にあたってください。

1134 x 800 460KB

那覇全体の宅地割について述べたい。先の復原作業では昭和期の地図を土台としたが、それにも関わらず明治37年の地番を推定することができた。つまりこれは、明治37年以降の地割が大部分において細分割されることなく昭和期まで継承されたことでもある。これらの各地割形状は、正方形に近い多角形の形状をして屋敷型の宅地割で、1737年に出された屋敷地一辺の長さでもって制限を加える近世の家作令に由来すると見て間違いない。遊廓地を除く大部分については、久米をはじめとして比較的広大な宅地割で構成され、昭和期の地図でもその様子は窺える。那覇の現住人口は、垣花・牧志を編入した後の明治36年の時点で42,842人、大正3年には56,481人に増加している。この15000人余の増加人口は、各宅地の内部において貸家を建てて吸収されたと解釈できよう。 

「この15000人余の増加人口は、各宅地の内部において貸家を建てて吸収された」ってのは興味深いです。
昔の屋敷割の図は県立図書館の貴重資料デジタル書庫で「久茂地村屋敷図」を見ることができます。

http://archive.library.pref.okinawa.jp/?type=map&articleId=50017

字西・字東を中心とする一帯には、寄留商人による大規模な米穀、呉服、雑貨の卸売店舗、本土商店の支舗、高級旅館、銀行、大通りに面しつつも敷地の狭小な箇所については飲食店が分布する。海に面する字西の埋地には、海運業者、材木業者、砂糖や肥料関係の移出入業者とその倉庫が集中し、字西辻には近世以来続く遊廓街と、その一部に菓子店や飲食店があり、字東西岸・字泉崎中央部には明治41年に辻遊廓に統合されるまで渡地遊廓、仲島遊廓があった。各戸の敷地が広大な字久米には会社役員の寄留が多く医院、教会などがある。字若狭町の南側には官舎が集中し、北側には漆器製造関係者が目立つ。字久茂地には、電機会社や農場試験場、移民取扱所、染物所、パナマ帽工場、製材工場、樽製造工場、煙草工場などの工場が多いが、久茂地川に沿った立地に起因するであろう。字泊においては、前島には製塩業者、その他に多数頻出するのは車夫で、首里との往来に需要があった。
なお那覇全体に関しては、至る所に県内外出身の相当数の寄留者がいた。商店に丁稚した者はもちろんのこと、医者も好立地の場所に寄留して開業し、寄留商人も更なる適地を求めて移転する事例が見られる。


最初にあげた図の範囲の街の様子を見るのには国場組社史のなかにある市街図がわかりやすくていいです。

酒屋新垣・仲本酒造工場

52年の酒造工場那覇3区の酒造所?の続きのようなもんです。

左図は沖縄主要地・主要商工年鑑(1951)の第二十七図表です。
上の安里橋から下の真和志支所方向にむかって店舗がいくつかありますが、右側赤い方は「丸中製材所、仲本酒造工場、酒屋新垣(略)」、右図で赤く示されている箇所はゼンリン地図69年版では丸仲製材所です。

沖縄主要地・主要商工年鑑では丸中製材所と隣り合って仲本酒造工場、その隣りの角に酒屋新垣があることになっています。

那覇3区の酒造所?でも検証したのですが仲本酒造工場のある壺屋201とだいたい同じです。
仲本興公/壷屋町201番地の2[那覇市3区14組/仲本酒造工場][34.仲本酒造場/中・泡盛/那覇市壺屋町]
またゼンリン地図69年版では角付近に「新垣吉春」、過去の名簿では「新垣芳春/壷屋町201番地」とありますから酒屋新垣はこの人が経営していたと思われます。
おそらく右図のポインタ辺りに酒屋があったんでしょう。

参考:グダグダ(β) 表の比較
参考:グダグダ(β) 那覇の酒造家たち (沖縄県酒造組合連合会史にある名簿)
参考:グダグダ(β) 泡盛生産高表(56年) (沖縄県酒造組合連合会史の「泡盛生産高表/割当表」にある名前)
参考:グダグダ(β) 酒造組合名簿(1962) (web上にある名簿)

日乃出機械工業所

沖縄主要地・主要商工年鑑(1951)の第二十七図表(左)です。

右の図での赤が「日の出機械工業株式会社」、青が「丸中製材所」です。位置は69年のゼンリン地図を参照しました。
※ゼンリンでは日出機械工業所、丸仲製材所となっています。

左図での店舗名。
1は上(安里橋側)から日の出機械工業株式会社、巴鉄工所、うるま新報社、A山一商事支店、安全瓦工場、三好野食堂(仲村トミ)
2丸中製材所、仲本酒造工場、酒屋新垣、料亭三原、●共栄木材(●は○に共)、上門木工所、料亭田鶴

真和志郵便局周辺(51年頃)では奄美会館がある通りを特定できてなかったのですが、とりあえず日野通りがそうであると見なしています(奄美会館の位置特定はできていません)。
沖縄県公文書館に日乃出機械工業をあつかった動画があります。

沖縄の生産業シリーズ ボイラー 日の出機械工業 - 映像を見る・映像が語る沖縄 - 沖縄県公文書館
http://www.archives.pref.okinawa.jp/films/2008/04/post-36.html


画像はスクリーンショットで作成。動画によると1949年創業で、生産した製品は煙草会社やビール工場、そして金武の発電所などで使われたそうです。

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