忍者ブログ

グダグダ(β)

メンテナンス中/内容について一切保障できません
3/24アクセス解析再設置/不快に感じられる方はJavaScriptオフを推奨

MENU  ブログ内検索は左のMENUからできます

ENTRY NAVI

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

新垣義堅

新垣平尾バスの新垣義堅さんです。沖縄大百科事典からまとめます。

新垣義堅
1898(明治31)年国頭間切辺戸生、1965(昭和40)年没。
国頭尋常高等小学校卒業後上京し自動車学校入学。帰郷後沖縄自動車に運転手として就職し、1923年金城清松らの後援を得てあらかき自動車商会を設立。34年に南陽自動車商会、38年に朝日自動車商会を吸収合併。39年に統制令によって平尾バスと合併し新垣平尾バスとなり、その専務に就任。バスだけでなくタクシー部門(あらかきタクシー)も設置、その後満州でもタクシー会社を経営する。


新垣平尾バスについて。

新垣バス(1923年設立)と平尾バス(1923年設立)が統制令により1939年新垣平尾バスが設立、那覇名護間を運行する。
沖縄戦で壊滅的な打撃を受けるが戦後再建、54(昭和29)年に昭和バス(現琉球バス)に合併されるまで営業した。


戦後の沖縄本島のバス路線事業は1950年4月1日に会社を設立した沖縄バスに始まり、1950年 - 1951年には14社(*1)が乱立。
うち8社の合併や買収などで誕生した昭和バス株式会社と青バス株式会社が合併し1964年7月に琉球バス交通の前身である琉球バス株式会社が発足した。
※沖縄バス、共同バス、首里バス、三共バス、沖縄交通(桜)、那覇交通(銀)、合同バス、昭和バスあらかき平尾バス、協和バス、東陽バス、第一交通、青バス、那覇陸運
琉球バス交通 - Wikipedia


新垣平尾バスは戦後復活したけども1954(昭和29)年に昭和バスに合併され、その昭和バスも1964(昭和39)年に琉球バスに合併されたという流れのようです。
ですが沖縄協同バス株式会社で扱った「沖縄実業と文化人名録」では「取締役社長 平尾喜一、専務取締役 新垣義堅」となっていてよくわからんとこです。また沖縄実業と文化人名録は発行年がはっきりしません(50年代の初期なのは確か)。

【追記】1950年の琉球人事興信録から抜粋します。

新垣義堅
協和旅館経営 沖縄協同バス専務
戦前新垣バスと言へば知らざる者なし沖縄流通業を掌握し実業界に君臨して其の名を馳せたる新垣義堅氏は明治32年国頭村字宜名真に生る。郷学を卒へるや決する所ありて出覇、金城内科医院に勤務したるも将来自動車職の有望なるに着眼し、之が経営を志し上阪して自動車学校に入り運転の技術を習得して帰県、沖縄自動車商会に勤務し大正12年独立して新垣自動車商会を開設し事業隆々として向上の一途を辿り沖縄交通業界の異彩として県下を風びし盛業を極めたるも終戦となり休止の止むなきに至る。されど氏の才能は凡庸の及ぶ所に非ず虎視眈々機の至るのをまち大成するものとして逸す可からざる人材なり。1946年協和旅館を設立するや腕にものを言はせて隆々たる盛業振りを示し1950年1月いよいよ沖縄協同バス株式会社設立し、交通業界の権威者たらんと氏の将来期してまつべし。
琉球人事興信録 1950(抜粋と編集)


関連:グダグダ(β) 白山療養園 (金城清松/金城内科医院)
参考:グダグダ(β) 千歳橋通り/浮島通り(50年代初期) (協和旅館)
PR

バス道路[神里原] (52年)

沖縄主要地主要商工年鑑(1952)の第三十四図です。中央にある太い道路は「バス道路」と書かれています。

この範囲には那覇劇場(a)や神里湯()などの後年まで残っていた箇所があるのですがよくわからないとこがあります。理由は沖縄主要地主要商工年鑑の図の書き方に由来するんですが...
グーグルマップ上に上の図と同じように描いてみたものが下図です。第三十四図と同じように南北逆転させてあります。

大洋劇場へ向う路地が左側で新栄通りに向う路地は右側になるのでこれであたっているのだと思います。しかし神里湯のある道あたりはどうも第三十四図とは違うようにしか見えません。
沖縄主要地主要商工年鑑には図の書き方の癖があり、他の図でカーブしているにもかかわらず直線状に描いたものは別の図でも直線で書かれている事が多いです。なので店舗名との照合や道路間の関係性などを確認しなくてはいけないのです...
第三十一〜三十三図ではマルクニマーケットから現330号線までの区間を一直線で描いているのでそれとの整合性を図ったのではないかと考えています。ですので今回取り上げた第三十四図では下から二つ目の横線の神里原商店街(図中に書かれていますが略しています)が現実的には弧を描いているにもかかわらず直線として描写し、神里湯あたりとの道の関係性を表そうとするとこうなったという結果ではないかと思われます。

壺屋天ぷら坂のバス(三共・東陽)にかんしては市場通り(52年) 2、神里原のようすについては神里原通りのようす 2などを参考にして下さい。
この図の店舗名はバス道路[神里原] (52年) 2を参照して下さい。

一高女

現栄町にあった一高女と女子師範の写真。掲載元は下記アドレスです。


http://shop330.com/modules/wordpress/index.php?p=510

安里駅 2での図を再掲。


写真の後方の高台は大道原(参考)か首里方向ではないかと思いますがよくわかりません。

沖縄協同バス株式会社

50年代の沖縄協同バスの広告。

沖縄協同バス株式会社
取締役社長 平尾喜一
専務取締役 新垣義堅
常務取締役 久保田○○ 宇良宗樽 宮城梅吉
取締役 前上門昇 宮城○正 
監査役 喜納豊昌 大村修一
本社 牧志町サイオン橋際
乗場
•本社前=国頭、中頭、泡瀬、与那原、知念方面行
•開南=糸満、港川、島尻各方面行
名護出張所=旧後裔バス跡
本部今帰仁方面行
西東廻り那覇行
沖縄実業と文化人名録 p144(抜粋と編集)


平尾喜一と新垣義堅の名前がありますね。
「あらかき平尾バス」はこの二人が作ったものと考えていたのですがWikipediaでは「協同バス」と同時期に存在していたように読めます。

戦後の沖縄本島のバス路線事業は1950年4月1日に会社を設立した沖縄バスに始まり、1950年 - 1951年には14社(沖縄バス、共同バス、首里バス、三共バス、沖縄交通(桜)、那覇交通(銀)、合同バス、昭和バス、あらかき平尾バス、協和バス、東陽バス、第一交通、青バス、那覇陸運)が乱立。
琉球バス交通 - Wikipedia


グダグダ(β) 昭和26年のバスでの図を再掲。1951年です。

那覇交通(銀バス)

銀バス(那覇交通)です。Wikipediaからまとめてみます。

•1951年5月8日 「那覇交通株式会社(銀バス)」誕生、戦後の本島で6番目のバス会社として設立。
1950年~1974年頃 「沖縄交通(桜バス)」と「那覇交通株式会社(銀バス)」が統一。「那覇交通株式会社」になる。
•1974年8月1日、沖縄総合事務局の指導のもと「那覇交通株式会社」に「株式会社首里バス」を編入。
•2004年7月18日、「那覇交通株式会社」から営業の全部を譲り受け「那覇バス株式会社」として営業開始。
那覇バス - Wikipedia


復帰あとしばらくは首里バスはあったんですね。沖縄交通(桜バス)との統一は50年から74年となっているのでよくわからないです。
首里バスその他も引用してまとめます(那覇交通以前の項から)。

•1935年1月27日 「首里市営バス」が那覇市~首里市間で運行を開始。当時那覇・首里間は「新垣バス(後の琉球バス/琉球バス交通)」が運行されていたが競争の結果首里バスの独占運行に。
•1950年7月26日 「首里市営バス」が那覇市~首里市間の運行再開。
•1951年頃 米軍の指示により「首里市営バス」を民営化「株式会社首里バス」誕生。
•1951年3月6日 「沖縄交通(桜バス)」誕生。
那覇バス - Wikipedia


最初の引用では首里バスは1974年に那覇交通に編入されていますので、1951年の民営化から復帰あとまで株式会社首里バスは存続。
「沖縄交通(桜バス)」は1951年誕生となっていますので戦後経済スタート時に多数誕生したバス会社のうちの一つであること、そして「1950年~1974年頃 「沖縄交通(桜バス)」と「那覇交通株式会社(銀バス)」が統一」ということから那覇交通に統一されてしまったことがわかります。

国際通り夜景

絵葉書の販売サイトから拝借。
福山商事(国際ホテル)からクロコデールストアあたり、山形屋近辺からむつみ橋向けの撮影ですね。




参考:グダグダ(β) 福山商事
参考:グダグダ(β) 福山商事ビル近辺
参考:グダグダ(β) Downtown Naha, 1967

沖縄バス

栄町にあった沖縄バスです。沖縄バスのサイトにはこうあります。

当社の前身は、昭和22年8月に米軍統治下でスタートした公営バスであり、当時は米軍のトラックにホロを掛け、後方のはしごから乗り降りする状況でありました。その後、昭和25年1月に陸運行政が沖縄民政府に移管されたのを機会に、その時の公営バス全職員が株主となり、同年4月1日に沖縄バス株式会社を設立しました。
http://okinawabus.com/modules/company/company.html


Wikipediaの沖縄バスの記述をまとめてみます。

戦後のバス事業は、1947年8月ごろに佐敷村(現南城市佐敷)馬天に開設された公営バス管理所によるバス事業が始まりである。1949年8月ごろに営業所を佐敷村馬天から那覇市安里栄町に移され、公営バスは1950年3月末頃に廃止。1950年4月1日に設立された民営バス会社である沖縄バスに引き継がれた。
1950年4月1日 公営バスを引継ぎ、民営バスの一つとして資本金3,000万円(B円1,000万円)で沖縄バス株式会社を設立し、営業開始。5月23日から営業運行開始。

1960年7月28日 観光事務所開設(那覇市泉崎)。
1987年7月25日 那覇市安里より那覇市泉崎へ移転。
1990年11月14日 旭町整備工場改築・バス車庫・観光部事務所落成。
1991年1月17日 観光部移転(那覇市旭町42番地3へ)。
1991年11月15日 観光部駐車場跡に沖縄バス本社ビル竣工(那覇市泉崎一丁目10番16号)。本社事務所4階、定期観光バスのりばを1階へ、2・3階テナント室として賃貸、同時に6階建駐車場建設し、リウボウに賃貸。
沖縄バス - Wikipedia


戦後経済のスタートが50年ですからその頃のスタートということになります。
50年代の「沖縄実業と文化人名録/上原軟剛編」にある沖縄バス株式会社の項目から抜き出します。

沖縄バス株式会社
本店 真和志村安里(電話ナハ58)
支店 名護町東区(電話ナゴ18)
出張所 那覇・開南・糸満・石川・与那原・ヤケナ・辺土名・本部・今帰仁
社長 中山良輔
事務 島袋慶雄
取締役 稲嶺盛義 花城清珍 宮里松助 内間薫 宇良宗朝
監査役 大城嘉盛 當山正栄 宮城豊源


樋川大通り(52年)では開南バス停は「沖縄バス 糸満線のりば」、牧志大通り周辺(50年代初期)ではグランドオリオン通り入口あたりに「沖縄バス那覇営業所」があります。
87年に栄町から泉崎に移転した本社が97年の本社ビル竣工までの間どうなっていたのかはWikipediaからはよくわかりませんでした(後日追記します)。

世界館周辺(52年)

沖縄主要地主要商工年鑑(1952)の第三図(一部)からで世界館(国映館)を中心とした一帯です。
図の上がむつみ橋方向、下が久茂地・松尾方向です。

1は久茂地・松尾方向から。
松尾大通り角にみやぎ自転車店(角)、通りから入った場所に仲田旅館、表通りに戻って角に寿屋染物店(角)、我如古製靴店、合名会社アジア電器商会、宮崎洋服店、国吉洋服店(角)。浮島通りをこえて角に松尾派出所(角)、那覇鋳物会社、世界館
2も久茂地・松尾方向から。
まず道を入ったところに那覇ホテル、表通りにホテル照喜名。道を入って左側の表通り側から花咲、伊志嶺印刷所、その向いに千原医院。表通りのパラダイス通り入口そばに奴茶屋。世界館向い路地の奥に美島壮[荘?社?]

過去の空撮と確認できる道の図。右図は上下反転(南北逆)にして写真に合わせてあります。

最初の図は52年のものですが、この空撮写真はいつ頃撮影されたかはわからず、世界館(国映館)は1955年からなのでそれ以降ということになります。
最初の図の時期には浮島通り・松尾大通り間に一銀通り(参考)がまだできておらず、写真でも一銀通りはありません。最初の図での松尾大通りの突き当たりからパラダイス通りまでの区間に那覇ホテルのある道と千原医院・花咲のある道の二つがあるはずですが、この二つが現在どうなっているのかは写真でもよくわからず、右の現在の地図でも確認できません。

× CLOSE

ブログ内検索

アクセス解析

カレンダー

05 2025/06 07
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30

最新コメント

[08/08 なちょうらーざ]
[07/19 shimoji]
[07/19 shimoji]
[03/21 2階の店舗の娘]
[03/05 福島敏彦]

× CLOSE

Copyright © グダグダ(β) : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]