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東町の3月遊び/流れ舟 3

明治5年東町生まれの大湾カマドさんによる流れ舟の思い出です。
他シマとの競争意識について。

こうして流し歩くうちに他シマの舟とすれちがうことがある。相手になるのは大抵は西町だがそれとわかると近づけてチヂンを打ち鳴らし歌を掛け噂や評判の相手に悪態をつきひとしきりわめき合う。どっちかが答に窮して返歌が口をついて出なかったりいい負けたりすると言葉争いは事面倒だとばかりに、もう相当に頭にきてカッカしているから、いきなりお椀で潮を相手にぶっかける。相手も心得てそれとばかりに両方から浴びせる。中には棹をもち出すのもいる。お互いにびっしょりべとべとになって、いわゆるミジブニ(水舟)にして引き揚げる。時にはつられて船頭同士の喧嘩になることもある。東と西、久茂地と譜嘉地のように伝統的な仇敵がどこにもある。しかし遠慮して黙っているとやはり意気地なしとみておかまいなしに潮を浴びせる。好んでするものではないがはずみがつくととんでもないことになってしまう。
(中略)
泉崎と湧田はタナカ小路を挟んで両方が立ってチヂンを叩いて張り合った。うっかり見にいこうものなら掛歌の的になってしまうから、こわいもの見たさで遠くから見ていた。

〽井口グヮーヌ アンマーヤ ヌーサル アンマーガ マササルン アラン 井口グヮーヌ アンマーヤ クルチ ウチキリ ムリティ ウチキリ
(井口さんの母さんはどれほどの母さんか、霊験があるでもなし殺しておけひねっておけ)

さしもの井口家の奥さんも歌にかけられてはやされ歌われた。道幅も二間そこそこの狭い所だからすぐ見つかってしまう。
久茂地と泉崎が久茂地川を挟んでカーラバンタで、久茂地はアガリヌサチ、泉崎は甲辰校側に立って喧嘩していた。時には男の子がイッシンバーエーで石の投げ合いをしていた。
那覇市史資料編第2巻 中の7 P710(抜粋と編集)


下泉が泉崎で上泉が湧田、久茂地大通りを境にして川側が譜嘉地です。
シマごとの対抗意識は結構なものだったようで、安里育ちの古波蔵保好さんの本にも石合戦や喧嘩などの思い出が書いてあったかと記憶します。小さなシマではあるんですが文化がけっこう違いますから相容れないものがあるんでしょうね...

井口さんの奥さんをはやした歌は怖い内容のようですが「クルチ ウチキリ ムリティ ウチキリ」という韻を踏んだ言葉を使いたかっただけのように思えます。「クルス(クルチ)」という言葉は標準語にするとどうにも物騒でいけません...
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東町の3月遊び/流れ舟 2

ひきつづき明治5年生まれの大湾カマドさんによる流れ舟の思い出です。

え、昼間です、真昼間、船の左右に幕を張って雨が降ると上にカバをかける。暗くなると提灯に火を入れる。すると遠くからみると水に映えて羨ましいくらい奇麗でしたよ。御飯?そんなのわけない、あらかじめお手伝いさん頼んでおいてヌチャーシー、ヤー<広いお座敷のある家を借りてそこで遊んだり寝起きすることもありまた煮炊きもする>で頂く。ジューシーとなますで簡単にすます。何しろ25貫(50銭)で5日も遊んで舟賃や女中代も払うから贅沢はできない。このアシビヤーはサガイにある湖城家が常宿だった。お友達の家で海を前にしてその向いに奥武山が浮かんでみえた。お椀やお皿などは湖城さんとこで借りて、朝は御飯にお肉のお汁と膾を頂くなり、舟にのるとお昼はジューシーを飯櫃に入れ傍に膾の桶を用意してお手伝いさんが岸で待っているから、舟をつけてお櫃や桶や食器を入れたバーキ<籠>をあげるや手早くよそうと、皆お腹をすかしているから一斉にかぶりつくように瞬く間に空になる。時には雑談したり、噂の誰それ、結婚の取り決めなどなどそしてお昼寝もする。舟は船頭に任せて沖に出ることもある。そのうち、クチ、サビシイネー(口が淋しい意、何か口にしたいような時おやつみたいな)ところ天に甘酢をかけたのを端道の宇良に頼む。
那覇市史資料編第2巻 中の7 P709、710(抜粋と編集)


辻端道の宇良てんぷら。
参考:グダグダ(β) 庶民とフクミン
参考:グダグダ(β) 油のひみつ

明治5年生の方の思い出ですから実体験は明治初期で、そのころにはところてんがあったことがわかります。いつからあるのかはわかりませんが寄留商人が持ち込んだんでしょうか?
明治初めの25貫(50銭)はバカにできない金額です。

東町の3月遊び/流れ舟 1

那覇市史から明治5年生まれの大湾カマドさんによる流れ舟の思い出です。
結構長いのでいくつかにわけます。

妾(わたし)たちはね、3月に遊ぶのに芝居を見ようなんていうのがいるとね、そういう人には銘々にお金をやって勝手に見ておいでと前もって年上の方からいわせたよ。大体、芝居なんていうのは家族と一緒ならいつでも見られるもの。このアシビというのは1年に3月の月だけのたった一度しかないのだからそれこそこの日を遊ばなくては全く意味ないョ。アシビがいやだから芝居にゆく人にはお金を返すがよいと皆ぶつぶつ文句をいったものだ。3月はヌチャーシーでみな皆でお金を出し合って一緒に遊んだものだ。えッどんな遊びかって?それは3月アシビなら妾の町の東[町]ならナガリ、ブーニー(流し舟の意)にきまっているョ。大きな伝馬船にのって水のまにまに船をやる。30人かいや4、50人はのったろうか。船に乗ってチヂン(小太鼓)叩いて思う存分に歌って踊って過すのだ。海の上の、船の中で、あたりには誰もいない所で皆が勝手に歌って踊って...本当に楽しかった。今思い出しても気がせいせいする。え、どこを別にきまりはないが、東のサガイから乗ってどこへでも漕いでゆく。海のあるったけ、公園の奥武山のぐるりを回ったり、真玉橋を潜りぬけて川でもどこでも木が生えてるとその中を通り抜けて饒波・高江洲までも上げ潮にのって川の真中を漕いでいった。
那覇市史資料編第2巻 中の7 P709(抜粋と編集)


思ったより大きな船でおどろきました。

参考:グダグダ(β) 河川 2 (饒波川)

大門前通りの商店主出身地

大門前通りの商店主を出身地別に色分けしてみました(左)。右図はタイムス掲載の「戦前の大門前民俗地図」で左図は右図を下図にして作成してあります。

出身地のデータは「那覇市史資料編第2巻 中の7」の298ページから。

参考:グダグダ(β) 大門前通りの商い (那覇市史資料編第2巻 中の7 p298の内容)

久茂地大通り


久茂地大通りは、孔子廟付近(セーヌカンとの交差路)から、チンマーサー(潟原と崇元寺への道の交差路)までの通りで、通りの西方(潟原へ向って左)を久茂地、東方(右)を譜嘉地と呼んでいた。
首里や地方からの通行が激しく、道はでこぼこができ、雨の日はぬかるんだので、シッタイミチと言われていた。
小澤書店や仲元履物店、小渡布団店もあったが、いったいに往還する馬車持ちや人力車曳きを相手のジューシーメーを売る一膳飯屋が多く、また関帝王・千手観音などを描いて売る掛軸屋、印版屋、ブリキ屋、あんもち屋、駄菓子屋など庶民の生活向きの小店が軒を並べた。久茂地は昔から職人の町で、掛軸屋、玩具製造、かすり結い、指物師、線香づくり、粉挽きなど、手先の器用な、家内工業の職人が多かった。
那覇市史資料編第2巻 中の7 P298、299(抜粋と編集)


図は那覇民俗地図と「戦前の久茂地村民俗地図」を参考に作成しました。図中の小渡は(上記引用文の)那覇市史中の布団店かどうかは確認できていませんのでご注意。

仲元は昭和12年の「日報の沖縄人名録」にありました。
那覇市久茂地町1ノ48 電474
履物商
仲元喜恭

参考:グダグダ(β) 久茂地町(昭和4) (1ノ48は図と同じ位置)

国場組社史中の「昭和初期の那覇市街図」も同じ位置に「仲元履物店」があることになっています。

家譜

県立図書館の「沖縄についての調べ方案内」に家譜についての項目がありましたのでご紹介。
このページの「No.2 家譜を探す」で案内されています(pdfです)。

沖縄についての調べ方案内|沖縄県立図書館
http://www.library.pref.okinawa.jp/list_typeA.jsp?menuid=200&funcid=2


このブログでは家譜関連は扱いません。

久茂地のニンブチャー

いつの頃からか、久茂地のコーシヌミーマーチューにも念仏者が住みついていた。3戸の長屋に住みついていたので、近代にはその居住地はミーチクヮンタク(3つの官宅)と綽名をつけられていた。そこの住人は依頼されれば雑役にも従事し、通常はボーシチャナーと呼ばれていた。ユカッチュ(良か人、士族)のダビには2人、百姓のダビには1人出て、ニンブチャー(念仏者)をつとめ、チョームン(経文)を唱えた。葬列の旗持ち、天蓋持ちもボーシチャナーがつとめた。
那覇市史資料編第2巻 中の7 P431(抜粋と編集)


コーシヌミーマーチューというのはどこだかわかりません(格子戸、格子の枠の間のすきま、のことをコーシヌミーと呼ぶようです)。
ボーシチャナーは何でもやる日雇いのようなもんでしょうか。

忠尽堂(忠藎堂)の由来

王家・王族だけが菩提寺を有していたのではなかった。尚真王の治世に浦添親方(*1)によって建立された広徳寺はその菩提寺であったし(*2)、久米村の清秦寺は蔡姓の廟寺であった。「蔡家家憲」(*3)によれば、蔡家の家廟はもともと忠藎堂と呼ばれていたが、喜友名親方(紫金大夫蔡堅)の代に円覚寺の末寺とされたもので、1732年に蔡姓一門の願い出によって再び家廟(忠藎堂)に改められたという。泉崎にあった潮音寺は同じく36姓の金姓の家廟であった。金姓の女性が建立したのであるが、「那覇由来記」(*4)によると、後に潮音寺を移して聖現寺が建てられたため、金姓の神主も聖現寺に安置されたという。
*1 月船忠公と号す
*2 『球陽』巻6・尚質王13年の条
*3 四本堂家礼ともいう
*4 『琉球国由来記」巻8
那覇市史資料編第2巻 中の7 P426(抜粋と編集)

※忠藎堂の「藎」の字は「荩」とも書くようです。忠尽堂と書いてある本があったのでこのブログでは「忠尽堂」を使っています。

円覚寺は臨済宗なので一時(?)は禅寺ということになりますね。
単に「堂」とも呼んだようです。

ドー /doo/(名詞)
寺の名。蔡氏の祖先をまつる寺。清泰寺。ロー roo(堂)、サイウジドー saiuzidoo(蔡氏堂) ともいい、久米村にあった。

http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN51210


参考:グダグダ(β) 堂屋敷と堂小屋敷
参考:グダグダ(β) 久米町(昭和4) 2丁目106か?

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