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十貫瀬(ジツクワンジ)

七つの墓の前の岩丘のところを、俗に十貫瀬と称えてゐた。『昔旅人あり、銅銭十貫文を岩上に置き忘れ、数年の後に訪ね行きしに、もとのままにありしとて、斯く呼びなされた』という伝承がある。 又琉球国由来記には
十貫瀬、牧志邑ニアリ。
『昔旅之人、コノ辺ヲ通過スル時、忽チ早雨ニ遭フ、暫ク雨ヲ其ノ下ニ避ケ居ルウチニ、ソコデ帯ビヰル十貫文銭憶ヱズ石ノ上ニ置キ遺レ、而シテ開船回去ル。 嗣後ソノ人亦来ル、隅々コノ路ヲ過グルノ時、往イテ而シテ之ヲ視ル。コノ銭旧ニ依リ猶在リ、故ニ之ヲ名ヅケ十貫瀬ト曰フ』
とあるが、このまま信ずることは出来ないが、しかしこの地名については考える余地はない。
亦この付近の小字を十貫瀬の前と言ふ。
古へ、この付近一帯が海中であったことは勿論であるが、今尚ほ海水浸食の跡歴然たるものがある。俚諺に

十貫瀬道をて 親も子も にやはいばい。(親知らず、子知らずの十貫瀬道)


元ダイエーから崇元寺に抜ける道あたりのことです。
戦後は飲屋街でしたが今は寂れてしまいバラックのとり壊しが進行中です。
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七つ墓(ともいやま)

美栄橋と崇元寺との中間、浮道の東側にある岩丘で、その上に七カ所の古墳があるが、それに因んで俗に七つ墓と呼ばれている。
この七つを支那人脩して七星山と唱えていた。李録に
『七星山俗名富盛山』とあるが、これは『富盛辻の瓦屋』と呼ばれて壷屋、新村(ミイムラ)以前に、牧志瓦屋のあった土地でこれよりやや裏手に続く丘陵の事で、七星山とは別個である。

 七つ墓はモノレール美栄橋駅の近くの標高20mくらいの小さな丘です。ちょうど高良楽器の斜め向かい位。 この辺は長虹堤のすぐそばなので元海岸線です。ここから58号側はほとんど海でした。 海岸線の岩が多く土が薄い所の常として周囲は元墓地が多い所です。緑が丘公園、パラダイス通り、国際通りにかけては緩やかな丘陵になってますが墓地地帯でした。 いまでも残された所々にお墓があります。

寄宮

那覇市の字、旧真和志市に属する。1946年(S21)、字与儀宮城原(あざよぎみやぎばる)、字国場寄増原(あざこくばよせましばる)、洗田原(あらいたばる)の3小字で成立。寄増原の<寄>、宮城原の<宮>をとり寄宮とした。

元農業試験場跡地(1961年首里に移転)に知事校舎、与儀公園、市民会館 etcがある。人口が増大してからの地名ですがこの地名が昭和21年に成立したというのも事情を物語っています。
wikipediaの那覇市から抜粋します。

1945年(昭和20年): 太平洋戦争での空襲および陸上戦(沖縄戦)により街が壊滅。首里城も破壊された。米軍の全面占領下となり、立入禁止に。 
1945年(昭和20年)11月: 産業復興を名目として陶器製造産業先遺隊が壺屋へ入る。 
1946年(昭和21年)1月3日: 糸満地区管内壺屋区役所が設置され、復興が本格化。その後、民政府などの中央機関が那覇へ移転。 
1949年(昭和24年)12月9日: 米軍政官が「那覇を沖縄の首都とする」と発表。

こんな経緯ですから住居を求めての那覇市内の急激な人口増がわかるかと思います。無計画な居住開始ですから道が入り組んでて古い家が多く迷路のようです。
地図を見てみると 寄増原---真和志小学校の後ろのあたり、宮城原---寄宮2丁目付近、洗田原---寄宮十字路の国場側付近 です。

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