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上之屋

天久から分離独立したのが大正九年であったがいわゆる屋取部落とは内容的に違っている地域である。それが、那覇と中頭、国頭地方をつなぐ乗り合い馬車の駐車場が置かれてから、与那原や北谷方面からの移住者があり、また泊方面から自然膨張的に上之屋区域に移り住むようになって(真和志)北部の一拠点的存在となった。
(那覇市史資料編第二巻中の7、p39)


交通の要所となり人口増となった地域ってとこでしょうか。
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宿次のルート

やんばる国道物語 - 王府時代の道(15世紀〜1879年):やんばるロードネット_北部国道事務所
島尻方真和志宿 (しまじりほうまわしのじゅく)
真和志 ( まわし )
豊見城 ( とみぐすく )
小禄 ( おろく )
兼城 ( かねぐすく )
高嶺 ( たかみね )
真壁 ( まかべ )
喜屋武 ( きゃん )
摩文仁 ( まぶに ) の各間切
南部の西側をめぐって 摩文仁 ( まぶに )に至ります。

鏡水

鏡水は禿地の義
鏡水はカガンジと読み、小禄村の字名であって鏡水大根をもって知られたる砂質の土地である。
国頭村字辺土名の小字に鏡水がある。そこもまた砂地である。その他にも小字名にカガンジという所がいくらもあるが、砂地であることはこれも同一である。 カガンジは、山原では多くハガンヂといい、それが原音に近いものであろう。
ハガンヂはハガーヂ即ち剥げ地の義で、不毛なる砂原を意味したと思われ、内容において兼久や与那と相通ずるものである。
沖縄地名考/宮城真治


とりあえず一説ということで。
那覇市内の鏡水は空港のあたりになります。

字鏡水は、小禄台地の北部・東支那海に面する海岸低地に位置している。北端は先(崎)原崎と呼ばれた地で、小禄間切の安次嶺村・儀間村の一部であった。明治36年土地整理の結果、安次嶺村の内鏡水原・伊保原・前原儀開村の内蚊阪・名産原・下田原・箕隈原・土砂場原・水溜屋原・崎原当を割いて新たに「鏡水村」を置き、同41年町村制施行の結果、小禄村字鏡水と称されたのである(南島風土記)
小禄 -OROKU- うるく
http://takara.ne.jp/oroku/kaganji.html (省略と編集)

我那覇

我那覇は磽角の義

我那覇(ガナファ)は豊見城村の旧字名で、今は名嘉地と合して地覇と称えている。方言磽角の地をカンパ、もしくはガンパーという。我那覇はその転である。
磽角(こうかく)--- 石ころが多く、土地がやせている・こと(さま)。ぎょうかく。

沖縄地名考/宮城真治から。

道幅

「運輸交通」 置県後に於ける道路改修の先駆をなすものは明治十七年首里那覇間の公道の鋪石を撤去して砂利を敷き十九年那覇与那原街道を改修したくらいのものであった。 昔の那覇の幅員は大通りが三間、脇道は一間無いし二間、小路(すうじ)と言えば四尺程度に過ぎなかったが、明治四十二年県政が施行さられるに及んで俄然として活気を呈し那覇を起点とする県道として名護線、首里線、糸満線、与那原線、普天間線、波の上線が拡張改修された。(泊と連結する汐渡橋も明治四十二年に出来た。)
那覇今昔の焦点 -那覇の今と昔を語る-(文教出版社 S46初版 p96)


1間=6尺=1.82m、1尺=30.3cmだから大通りが5.5メートル幅、脇道が2メートル弱から3.6メートル、小路が1.2メートルくらいか。

天久の地縁

泊の北側にあった天久部落は米軍による土地接収で移住を余儀なくされています。

部落は米軍の土地接収にあい上之屋米軍基地にあった村落が現在地へ移住した。 
この時平野区は寄宮に移住した。これらは泊と本部方面からの屋取りと寄留民であるから移住後は交際は無い。
東原に三十戸ほどの首里出身の屋取り(ヤードイ)があった。平野区は泊との境界付近に本部方面の出身者が集まっていた。
昭和十四、五年頃まで馬手間があり、他部落のものと結婚すると罰金として十円を納める旧制度の部落外婚を規制した馬手間の名残があった。
那覇市史資料編第二巻中の7 p50


旧来の部落の周辺に屋取と呼ばれる寄留民集落がありました。
馬手間とは下記のような制度です。

馬手間 (うまでま/ンマディマ)沖縄本島でおこなわれた婚姻風習の一つ。馬酒、馬乗り酒ともいう。娘の村(現行の字)外への流出を防ぐためにとられた罰金制度で、損害の婿方から嫁方の村へ負担過重なほどの罰金を納めさせた。北部の村では、婿方が罰金を納めなければ、夜に女方へ通ってくる婿を捕えて木馬(疑 馬)に乗せ、村の拝所や共同井戸を拝ませたうえ村中を引きずり回し、ひどい婿いじめをした。それを免れるために酒や金品を送ったことから、馬手間の名が 生まれた。 この慣行は宮古・八重山には無く地割り制度のあった本島にしかない。 地割り制度の元では税の負担は村(字)単位だったから、一人の娘が村外 に嫁ぐとなれば、当然労働力が減ることになる。その対価として馬手間を求める慣行が生じたものと思われる。

原(ハル) 毛(モウ) トー

原(はる)とは、耕作地を表し、毛(もう)とは原野をいうこと、沖縄本島中南部方言と同一である。
また傾斜道を指すに、サカ地名は皆無で、坂道にはヒラ地名が付与されている。坂道を下から見るのがヒラで、上からはサカと呼ばれる。
カーとは井泉の義であるが、その音声から川の字が当てられ、河川にはカーラまた濁音になって○○ガーラ。カーラの変化した○○チャーラ、また濁って○○ ヂャーラと呼ばれるが、これは河川を原義とするものであろうが、これも川の字があてられていて字面だけでは井泉か河川かの判断はつかない。

桃原町(トー バル)
行政呼称と本来の呼称が珍しく一つである数少ない町名の一つで、いづれもトーバルで、隣の大中と併称してウフチュン・トーバルと呼ぶ。
琉球方言のトーとは、平坦な地をさす。『南島風土記』は「トーバルと唱へ、平蕪の義なれども今はモモハラと訓ませ原義を失へり」と記している。ある部分にモモハラと呼んだむきが会ったかも知れないが、ひつ者の知る限り、首里人一般が、モモハラと呼称した経緯はない。



「平蕪」とは雑草の茂った野原のことのようです。
ともかく重要なことがいくつかあります。
>原(はる)は耕作地
>毛(もう)は原野

人間の利用の仕方での呼称の変化ですね。
>カーは井泉
>河川はカーラ、濁音になって○○ガーラ、カーラの変化した○○チャーラ、また濁って○○ ヂャーラ

このへんは字面(と読み)だけでは井泉か河川かの判断はつかないということ。
>トーとは平坦な地をさす
沖縄の地名では漢字の意味より読みを重要視しなければいけません。
桃原は「ウフチュン・トーバル」で大中・桃原であり「おおなか・ももはら」ではありません。地名の併称は沖縄の他地域でも例がいくつもあります。

渡地 (わたんじ)

那覇市の通堂町(とんどうちょう)<現那覇埠頭>の一角にあった、かつての小島。垣花(かきのはな)への渡り口になっていて、山原船や馬艦船(まーらんせん)が多く停泊していた。1700年代に硫黄城と一つの島となり、明治初年、本当に接する陸地となった。埋め立てられた一帯は、宿屋や商社が建ち、倉庫が設置され黒糖や蔬菜の出荷でにぎわった。現在は東町の一角にある。

引用元は沖縄大百科事典かとおもいますが失念。

戦前の那覇の中心は今と全然違い、市役所や市場は東町にあり渡地も賑やかな場所でした。
与那原へ向かう鉄道もこの辺から出発していますし、北部から運ばれて来る薪なども那覇港に入りました。
通堂町

辻に統合されるまで渡地・仲島・辻の三箇所に遊郭がありました。
この三箇所のうち渡地と仲島(下泉)は那覇港のすぐ近くに存在し、格が低いとされています。これは那覇に来る各地の商売人(田舎の人達)が主に利用するということからくるものでした。
那覇の古海岸線
遠い過去には離れ島として存在しています。

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