源流があるかどうかで川かドブかが決まってしまうのかどうかはわかりませんが三原と繁多川にある暗渠です。
暗渠は薄い水色で川は青色で図示しています。

一番下はキブンジャー川が大石公園を出て暗渠化し再び地上に出るまでです。暗渠化されたあとは曲がりくねったまま道になって元川の雰囲気を残しています。
その上の細い暗渠は源流があるかどうかわかりませんがゼンリン地図73年度版によると何らかの流れがあったようです。流れが消えたからといって水が消えるわけもないので暗渠になっていると思われますが、道の形から推定すると道なりに流れていっていると思われます。
そして左上の松川小学校前にも暗渠があり、下っていくと練兵橋そばで川に合流します。この流れも松川小学校の前で水がわき出しているわけでもないので暗渠化された上流があるのでしょう。もしかしたら真ん中の流れが下っていって松川小学校のところに流れていっているのかもしれません。
図をすこし西北に移動してみると松川小学校前通りの暗渠が見えます。

前に紹介したサイト
■を参考にしてみると付近には湧小という湧水があり、交番向かい奥には水入山という旧跡があったようです。
サイトの那覇市-総合学習には、
湧小(ワクグヮー) 1丁目−3−21と書かれてていてその住所は図の赤いピンの位置になっています。
暗渠上方の水がキブンジャー川にながれているのか道路を横断して暗渠へ流れているのかはわかりません。また湧小の水が暗渠へ流れているのかどうかもわかりません。
サイト
■のハンタガーの説明を引用します。下線を引いた部分ですが復帰くらいまで簡易水道を利用している世帯もあり、終戦直後の大原区(寄宮)の土地選定理由の一つにも水の存在がありました。
ハンタガー
湧泉。村ガー。ボージガーと同じく前庭が広く、洗たく池もある。井戸口は金網が張られている。湧水量14.3m3/日。
那覇市歴史地図 文化遺産悉皆調査報告書 那覇市教育委員会
繁多川(井戸)那覇市繁多川にあり、ムラの起こりと密接にかかわりをもつ井泉です。昔のムラ作りは、「水」を頼りに形成され発展しており、ここ繁多川もまさしくその通りの
歴史を持っています。ここは市内で最も水に恵まれたムラで、「繁多川」という地名も、「水」にちなむ語義があります。今日使用している「繁多」は、もちろんあて字です。それは「端」の意味であり、すなわち「ハンタガ−」は「端の井泉」のことで、高い崖の近くの井泉ということになります。首里金城町に通ずる識名坂の頂上にある井泉の名称が、ムラの名称になったといわれています。繁多川にはこの井泉の他に、坊主井・大井戸があり、それによく知られた石田井戸もあります。これらの井泉は、いかなる早魃の時も渇水した事がなく、ムラ人の飲料水はもちろんのこと、農耕地をうるおし、その余剰水は簡易水道によって、当時の三原・大原・寄宮、または那覇市民にも利用されていました。
図説 郷土のくらしと文化 下巻
沖繩の井泉 繁多川