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中山門の入札

首里旧都の遺跡中山門は柱木ことごとく朽ちそのため傾斜し居たるを昨年は支柱を成したるにより潰倒を免かるに至りしも、昨今はこの支柱もついに役にたたず、さらに屋上の瓦落下するより、いよいよ危険となり同区役所において入札に付することとなれるが、開札は明後2日正午12時なりと。
明治41.5.31 琉球新報 (1908)
那覇市史 資料編


中山門は現在も復元されていません。
こちらのサイトに写真や位置等が詳しくあります。

世界遺産で遊ぶ
http://www.geocities.jp/djptd603/isansyurizou_ato.htm
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らい病患者

新聞記事にでてきたらい病患者の様子です。

那覇市場の盗み食い
当地の癩病患者は他人の飲食物を盗み喰ふに人々これを相手にすることを忌みて、大目に許し居る有様なるが、近頃癩病患者にもあらざる健全の者が無理にも米屋より、米を盗み去る者あるより、昨今の商人は大いに警戒し居れりと。
明治40.7.6 琉球新報 (1907)

本県下の癩病患者
其の筋の調査によれば、県下各警察署管下における、癩病患者数左の如し。
那覇 男43、女15
首里 男44、女24
明治40.5.7 琉球新報 (1907)
那覇市史 資料編(省略引用)


全県では672人です。
癩病患者はバクチャヤーに居住していたと思われますがこういうお目こぼしがあったわけですね。

参考:ムヌクーヤーテーソー
参考:バクチャヤー(辻)

当蔵の料理屋

首里もこのブログでは範囲外なのですが面白い記事があったので取り上げます。

当蔵の料理屋
旧藩時代より按司、親方の淵叢名門右族の輻湊地として知られたる首里区当蔵も世の移り変わるに従って、今は次第にこれらの美風もみだれんとす。ここに当蔵大通りに近年建築したる借家を借り受け新しく料理屋を開きたる那覇人某あり。酌婦には本県婦人を出しては目立ちすぎるとして鹿児島出身を両三名程雇い入れ安向の手料理にその繁昌一方ならず云々。学生の多い首里の真中で斯かる風俗紊乱の醜態は容赦できぬとあって青年有志の憤慨一方ならずとはもっとも至極の次第なり。
明治31.10.23 琉球新報 (1898)
那覇市史 資料編


那覇人が鹿児島人を雇って首里で料理屋をやってるがやりくちが気にくわんと。

松山周辺の官舎群

現在の那覇商業高校あたりにあった官舎と学校、それと連隊司令部です。


地図には書き入れていませんが赤が知事公舎および県庁官舎、茶が司令部と司令部官舎。
参考にしたのは「琉球の都市と村落」、那覇民俗地図、うきしま大学の「今残す若狭町古地図」です。うきしま大学は実質的に若狭町の民俗地図なのですが古地図とつくとややこしくなるので以降「わかさ民俗地図」と呼びたいと思います。
「琉球の都市と村落」の図の範囲は県立病院手前あたりまでになっています。その外側と細かい区割り等はうきしま若狭地図を参考にしています。

推定でしかありませんが公の施設や公的施設の敷地は旧士族や尚家のもの、もしくは共有地であった可能性は高いのではないでしょうか。
ちなみに松山の官舎街の後ろには読谷山御殿があります。

堂小・内兼久(久米)

堂小屋敷とおもわれる一帯と内兼久です。
東寿寺(堂小)久米村市場でとりあげたんですが「琉球の都市と村落」の図を参考にもうすこし詳しく書いてみました。
堂小・内兼久

堂小より嘆願(那覇)で、大正2年(1913)に燃えやすい建造物を市街地に建造する事を禁じた新規制に対して資力がないので対応できない堂小屋敷住民が従来通りに扱ってもらえるよう嘆願したのをとりあげました。
具体的には瓦葺きにする資力がないということです。
>これに対し区内久米堂小屋敷及び格子目に居住せる貧民等
「堂小屋敷と格子目」に居住せる「貧民」と呼ばれています。
「琉球の都市と村落」では図の道路のほか敷地も書かれています。今回とりあげた図の範囲では堂小周辺だけ敷地の区割りが細かく、他の敷地と比べると半分くらいしかありません。最も広い屋敷と比べると十分の一程度です。
ただし大通り沿いや東町あたりは堂小屋敷あたりとかわらない敷地面積です。
※図は参考程度の精度です

那覇の観光歴史ガイド本などでは青年会館そばの公園が内兼久跡として紹介されています。
面白いのは水路になっていた箇所が公園より若狭町側では現在の道筋と微妙に重なっています。埋立などでできた土地は基本的に公有地ですから換地や公売など出されない限り区画に影響します。ここもそうなのかなとも思いますが我ながら考え過ぎという気もします。
内兼久は高台だったはずですが整地によって跡形もありません。
松尾山とそれに連なる内兼久山は、那覇尋常高等小学校(沖縄テレビ)、そして裁判所(郵便局)、孔子廟(商工会議所)、そして大典寺のあたりから潟原交番前に連なる丘陵地帯で、そこには松山小学校、県立二高女、県立病院、知事公舎、その他県庁のお偉方の官舎があり、松風の音もさわやかないうなれば那覇の軽井沢的場所であった。
なはわらび行状記 p50、51(省略と編集)


現在は「山」どころか丘ですらないですね。

明治44年の豚飼育(那覇)

其筋の調査せるところによれば、那覇区における豚の現在頭数は1706頭にて、うち病豚38頭あるよしなるが、今これを各字別に示せば次のごとしという。
西147、東76、泉崎159、久茂地120、久米35、若狭町100、牧志134、泊534、儀間101、湖城300
明治44.5.12 沖縄毎日 (1911)
那覇市史 資料編(省略編集)


泊の534頭が突出していますね。東の76頭も面積の小ささを考えればこんなものかと。
儀間と湖城は国場川の向こう側です。

堂小より嘆願(那覇)

那覇市史より沖縄毎日の記事を引用します。

大正2年3月4日発令沖縄県令第13号家屋建造物取り締まり規制に依れば、市街地又は市街地に接続地区においては家屋その他建造物に茅藁など燃質物をもって建造する事を禁止せられるが、これに対し区内久米堂小屋敷及び格子目に居住せる貧民等は大いに憂慮しわれわれの資力にては瓦葺家屋の建造はとても不可能なれば旧来の住居にて寛恕してくださるべしと堂小屋敷より30名、格子目より3名の代表者連名にて嘆願書を提出したる由
大正2.4.1 沖縄毎日 (1913)
那覇市史 資料編


たまに難しい漢字があって困るときがあります。「迚」は「とて-も」と読むそうですよ...
堂小と近辺の困窮がしのばれます。

参考:東寿寺(堂小)
参考:那覇の細民

ガーブー周辺の50年代

50年代のガーブーの風景です。
ガーブー周辺
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/83/Waterfont_stalls_along_Gaabu_River_circa_1950.JPG

後方に見える高台は現在の希望ヶ丘公園でしょうか。

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