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国映館

国映館の歴史を豊富な写真でまとめているpdfを紹介します。
Remembering Okinawaから、Documents/Research Documents 1を選んだ中にあります。
pdfは下の画像と同じものをクリックすることでダウンロードできます。
Documents 1へのアドレスは下記。
http://www.rememberingokinawa.com/page/docs/RESEARCH_DOCUMENTS_1

Traced the uniquely designed Kokuei-Kan theater from it construction in 1951 to the 1960's. Filesize[7.1MB]


よくまとまっています。
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近世沖縄の流通構造

面白い資料をご紹介。

CiNii 論文 - 近世沖縄における流通構造の特質 金城 宏
http://ci.nii.ac.jp/naid/110000979085


第一章が近世沖縄の社会的経済基盤、第二章が琉球王府の専売制度を基軸に展開された領主的商品流通の特質、となっていて、最後に「局地的市場圏の枠内に封じ込められた私的交易の特質を都市地域と都市と農村間を結ぶ商品流通について考察する」となっています。

小難しいような感じですが読みやすくわかりやすいのでお勧めします。

沖縄砂糖商店

明治期の砂糖はほぼ寄留商人に牛耳られていたのですが明治36(1903)年に沖縄県人による会社が設立されます。

そこで沖縄の砂糖の商人たちも結束して沖縄砂糖商店を設立し、砂糖の委託販売を受けて、自分らで直接に、大阪、鹿児島に輸送して売却するというような元気を出しました。
商店の場所は、那覇区字西74番地にあって1月14日の新聞に広告も出しております。その沖縄砂糖商店を組織していた7人の氏名を記しておきましょう。
比嘉次郎、島袋加那、川津喜助、呉屋仁栄、島袋永保、小嶺幸之、糸満誠忠
沖縄県史物語/新屋敷幸繁 p120


砂糖前代や仲買人などの砂糖にまつわることは別項で取り上げます。
ここでは明治36年の西町に沖縄人による砂糖販売業者があったということを憶えておきたいと思います。
追記:沖縄砂糖商店について

著者の新屋敷幸繁さんは明治生まれで大学教授をされていた方でした。下の引用はwebからですが本のあとがき(77年発行)にもほぼ同じ内容が記されています。

明治32(1899)年〜昭和60(1985)年
詩人、教育者。与那城町生まれ。第七高等学校造士館教授、初代中央高校校長、沖縄大学学長などを務める。詩集『生活の挽歌』『野心ある花』、詩誌『南方樂園』、史書『新講沖縄1000年史』『コザ市史』など。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-41820-storytopic-121.html


この本には新屋敷幸繁さんの地元、勝連半島あたりの船が活躍する生活も少し書かれています。全体的にはソフトな書き口の歴史エッセイという感じでしょうか。

真和志南部空撮

上陸前・後の那覇から12月の写真の真和志地域を拡大してみました。


別にこれといったことは無いんですがいままでぐだぐだと書いてきたことが写真で見えるのは個人的にうれしいですね。
旧那覇で使っていた写真は真和志の部分が切れていて空撮写真を使うことが出来なかったのです。高解像度のものがあればと思うのですが探しきれていません。

ライセンスというかコピーライトに関して無知で、今までも野蛮なことをやって来たように思うのですが、一応自治体発行の書籍で使われている有名な写真や米軍撮影のものを出来るだけ使うようにしてきました。そうでない写真で使ったものは多少思い切っています。
戦後の空撮は国土交通省のものがあるのですがさすがにあれは手を出しにくいです。

このブログは旧真和志市(村)地域をメインに旧那覇も扱う方針なのですが真和志地域に関しては写真が少なく手を焼いています。とはいえ目立った建物も少なくただの田舎であった地域ですからしょうがないのかもしれませんが...

開南風景

開南バス停付近です。風景はあまり変わっていませんが人間の見た目は変わりましたよねぇ...
開南開南

隣のテビチ屋が有名でしたね。

上陸前・後の那覇

1945年の最初(1月/左)と最後(12月/右)の那覇で、どちらも空襲後の写真です。
那覇(1945.1)那覇(1945.12)

写真は下記サイト様よりお借りしております。m(_ _)m
真和志地区の様子が分かる写真ですね。

沖縄地上戦:沖縄守備隊と米海兵隊 鳥飼行博研究室
http://www.geocities.co.jp/torikai007/pearlharbor/okinawa-army.html

空襲罹災地域

10・10空襲(1944.10.10)で被害を受けた地域です。図は「那覇市被害状況図」、那覇百年のあゆみに掲載されているものを参考にしました。
自分が作った図は元図が昭和初期相当のものなので昭和19年当時とはすこし違いがあることを考慮くださいませ。
空襲罹災地域
まず港湾が破壊され、三次空襲が垣花、四次空襲が那覇市街地だったようです。これによって90%が焼失しました。
酷い話なんですが富山徳潤那覇市長は空襲後に九州疎開地視察と称して沖縄を出て戻りませんでした。島田県知事と対比させて語られることの多い話です。
那覇市長に兼島助役
那覇市長富山徳潤氏は敵来こう前県外出張したまま帰任せぬので島田知事は市長の留守をあづかって敢闘した兼島景範氏を廿七日付をもって市長に任命した
http://hc6.seikyou.ne.jp/home/okisennokioku-bunkan/okinawasendetakan/okinawasennosinbunkara.htm


沖縄に展開中の日本の戦闘機部隊は、陸軍第8飛行師団隷下の独立飛行第23中隊(三式戦闘機など12機)のみで、(略)海軍の銀河爆撃機9機や偵察機、輸送途中の航空機があるだけという状態だった。空中退避が間に合わないまま、多くの航空機が地上撃破された。独立飛行第23中隊は離陸に成功したものの、大半が撃墜された。

航空機以外にも日本側の被害は甚大で、港に停泊中の潜水母艦迅鯨など海軍艦艇22隻、輸送船4隻が撃沈され、輸送船2隻が大破した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/十・十空襲


迅鯨が沖縄で沈んだことや三式戦闘機(飛燕)が配備されていたことは初めて知りました。
この空襲以降疎開が増加してゆきます。

65年の大道付近

65年発行の那覇市明細地図を参考に左図を書きました(上大道原中心でそばの地域はすべて書き入れていません)。右は真和志民俗地図を参考にした戦前の道路図です。
上・下大道原(65年)上・下大道原(民俗地図)

原の範囲の白線はいい加減に書いた地番です。道路等と重なっている箇所も現在の区画と同じになっている箇所もありますが違っている箇所もあります。
上大道原の左側、字安里羽佐間原(白い部分)には南北に道が通っていますがこの道路はバイパス的な道です。右の戦前の図にはこの道と重なるような道はありません。
戦前の道は迂回するような形でしか移動できませんでしたがこの道によって部落内を移動するのが容易になりました。
※道路について間違いがありましたので訂正しました(2011.03.03)

安里から松川までで戦前の部落について触れましたが、戦前この一帯は大通り沿いにしか住居が無かったようなので、栄町の登場と戦後の人口増加に対応した区域なのだと思われます。

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