戦前パナマ帽製造会社を経営していた上江洲由清さんを取り上げましたが、その息子さんである上江洲由正さんも取り上げてみたいと思います。
自伝である「大同火災と私の人生」からです。
大正6(1917)年那覇市松下町で生まれる。北谷村屋良小学校、那覇尋常小学校、那覇尋常高等小学校、那覇市立商業学校卒業。
昭和13(1938)年都城歩兵第23聯隊へ入営、上海へ憲兵として配属、終戦とともに中国側へ拘留される。昭和24(1949)年巣鴨刑務所へ移送、昭和27(1952)年仮釈放され沖縄へ戻る。
昭和29(1954)年6月父由清死去、同年7月号名会社沖縄製帽代表社長に就任。
昭和30(1955)年沖縄農産工業株式会社取締役社長(パイン関連)。
昭和36(1961)年球陽自動車保険相互会設立、昭和37年同社専務取締役。
昭和38(1963)年共和火災海上保険株式会社常務取締役、昭和39年同社代表取締役専務、昭和40年同社代表取締役社長。
昭和46(1971)年12月大同火災海上保険株式会社設立、代表取締役社長就任。
大同火災と私の人生 p211、212(抜粋と編集)年表には「沖縄製帽」の項目は一ヶ所のみでその後どうなったのかは書かれていません。
「大同火災と私の人生」には門中についても触れられていますので引用します。
私たち上江洲家は李姓である。(略)門中宗家の当銘家の屋敷は首里汀志良次にあったが跡嗣ぎが絶えて、現在私が李姓門中会長を引き受け、宗家の親元祖をまつっている。
李姓一門の多くは、廃藩の頃に首里を離れて各地に住み着き、それぞれの土地に定着して成功しており、門中の誇りとするところである。思い出すだけの名前を挙げると、戦前の一中教諭で戦後首里市長になった兼島由明、沖縄文教図書の当銘由金、組踊の大御所・真境名由康の諸先輩がおられたし、若手には前具志川市長の当銘由親らがいる。名に「由」が付くのは李姓の特徴で、首里、那覇にある「当銘」「上江洲」「兼島」「真境名」「長嶺」具志川の「当銘」「長嶺」というような姓はほぼ門中一族である。
糸満にも「野原」「内間」「上江洲」「長嶺」があり、東風平にある按司墓を拝んでいる。こちらも李姓の分家と言われている。
李姓門中のお墓は、旧那覇市浄水場の上側、天久の高台にあって、墓のナー(庭)も広かった。
---
父由清は母マカトを娶り、二人の間に三男一女をもうけた。首里士族の出で、廃藩の頃に那覇に下りて若い頃からパナマ帽の製造販売に従事して戦後も家業を盛りたてるために大いに働いたが、病を得て昭和29(1954)年死去した。現役で軍隊に行っており、明治生まれの気骨のある人だった。母は当時の沖縄女性がそうであるように常に夫をたてる温和な人柄であった。昭和47年病没。
大同火災と私の人生 p205〜207(抜粋と編集)姓と名乗りについてはっきり書いてあったので引用してみました。お父様は
上江洲由清さんで明治24年那覇市松下町生まれ、兵役後に製帽関係の仕事をして独立しています。
また由正さんが商業学校を卒業し製帽会社を手伝うころには沖縄には7つの製帽会社があったそうですが、沖縄県人が経営する会社は上江洲由清さんの会社のみであったようです。本文中にはパナマ帽製造に関する思い出などがあるのですがこれは別項で取り上げたいと思います。
関連:
グダグダ(β) 大同火災 (社長を務める)
関連:
グダグダ(β) 上江洲由清PR