国場の原名(ハルナー)の続き。出典はすべて国場誌です。
前原(別名 アタンジャ)
•赤山(カーチラ)前原の中にある河川敷の名称で昔はカヤの採取場所であった。
溝原(ンズバル)
ンズはその名の通り水の通る溝の意味であろう。「球陽」には今から二百年前「仲井真の西側から長さ1,2歩、幅2尺、高さ2尺の溝を掘った」とある。
溝原の北側と長田原の一部を含めて銭又(ジンマタ)と称する俗地名がある。現在の上間タンク敷地の所で松の苗代が二筆あった。銭又毛には子供が亡くなったときの仮埋葬するところが会ったが仲井真の方々の利用が多かった。
後原(クシバル・ウィーバル)
クシ・ウィーにはいずれも包囲、位置を洗わす地名でオキナワの小字名、小地名ではもっとも多い地名である。
長田原(ナガタバル)
地名の意味は長い田んぼのあるところであり、大字地名では読谷と宜野湾に同名がある。国場の原名はこんなとこでしょうか。
溝原の「ンズ/ンジュ」が水の変化だというのも発音したら何となく納得。馬(ウマ)が「ンマ」であるのと同じようなもんですかね?
あと現在の尚学院のある丘は祝嶺毛(セークミモー)と呼んでいたようです。そのあたりに弾を撃ち込んでいた射的場(射撃場)のことも国場誌より引用しておきます。引用先ではクンチャミ毛と呼ばれていますが、あの辺りに祝嶺毛とクンチャミ毛がどのように存在していたのかは自分はわからず、沖大辺と尚学院辺を呼び分けていたのか同じ場所の別名かどちらかかと思われます。
もともと現松川小学校ちかくにあった日本軍の射撃場がいつの頃か勝良又原に移動してきた。
通称壺川、松尾集落の一帯に土を盛り上げクンチャミ毛の斜面に撃ち込むようになっていた。射的場はヒータイ橋から一直線にほぼ南北であった。参考図1 参考図2
国場誌 p335PR