「泊人の足跡/松村興勝」の酒屋の項目から抜粋します。
明治37年頃の37戸から、大正時代10余戸に減るという状況であった。こうした生存競争に生き残った酒造業者も、今次大戦中の統制経済による原料不足などや、企業統合などで転廃業を余儀なくされ、泊でも昭和19年には4軒となった。 p86
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玉那覇、浦崎、渡口、伊佐、有銘マカト、糸数酒屋、石川逢篤、伊波興耀
真栄城嘉観/町端の真栄城小、大正初期頃廃業
仲本興公/戦後開業(現在廃業)p88
泊人の足跡/松村興勝 (抜粋と編集)石川逢篤さんの名が見えますね。
仲本興公さんは戦後すぐの酒造関係の名簿に名前が見えますが、本の発行時である昭和60年には廃業していることがわかります。
伊波興耀さんは「藍売り」の項目で取り上げられています。
藍売り(イエーウイ)伊波の名称について、その後裔伊波興静の談によると、藍売り伊波の名をなしたのは興静の曾祖父興耀である。興耀の父興茂の時代に本部間切伊豆味に移住した。興茂の長男興耀は、一生草深き山原に埋もれるのを潔しとせず、朝な夕な遥かなる生まれ村泊に思いをはせ、いつの日にか財をなし郷里泊村に帰ることを切実なる念願としていた。
当時、本部間切は藍の産地で、これに着目した興耀は藍の生産と販売を志し、藍草を栽培し、藍生産に全力を傾注し、その藍を織物の村泊、垣花に販売していた。
たまたま島中に天然痘が発生し、その天然痘の伝搬を防ぐため、泊村への入口、上之屋から泊村へは立ち入り禁止となった。さて、この立入り禁止令の影響で、織物の染料たる藍の入手が困難と也、需要供給の均衡がくずれ藍の相場は高騰した。この藍により蓄財をなした興耀は、これしきに満足せず、より一層の飛躍を試み、名護に店舗を構え、商売に精を出し、更に泊村(戦前の高橋町1の111)で酒醸造所を経営した。
こうした勤勉努力の興耀が、藍商売で蓄財をなしたので「イエーウイ イハ」(藍売り伊波)と呼ばれるようになった。
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伊波興耀 嘉永元年生 大正6年没(70歳)
泊人の足跡/松村興勝 p10、11 (抜粋と編集)藍売り伊波は「戦前の泊の地図」では「藍売伊ハ小」として泊小近くにあり、「伊佐酒ヤ 浦崎」はハーリーヤ(現OK給油所)向かいあたりにあります。
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