真和志小学校北方一帯に存在した大原区です。
大原区は戦後計画的に入植されています。
大原区の発祥については、1946年8月軍政府から今後軍民那覇港を中心とする輸送計画を樹立し、陸運関係は那覇港に近いところに住居を持つように軍の首脳部から命ぜられたので、当時陸運課長であった宮城善正氏は候補地を天久と安謝に求めたがいかんせん飲料水に乏しいので水を頼って現在の地に来た。ここは旧真和志校の後方の岡で、大石毛という丘陵地のしたの原野地であったがブルトーザで切り開いて平地となしここに陸運関係の120戸の人達が住居を持つようになった。
(略)
大原という名称については居住者から募集したところ適当な名が無く、結局宮城氏が「石なぐの石の、大石なるまでん……」の歌からヒントを得て、大石原と考え、ついに大原と称えるようになった。この大原への移住は那覇近郊への解放の第一号で、その後。知念地区・石川地区・田井良地区より陸運関係の近親者や友人達が次々移動して現在の繁栄を来している。
真和志市誌 p274田井良は田井等(タイラ/羽地)のことでしょうか。あと二つあげられている知念・石川も収容所のあった地域ですので田井等である可能性が高いと思われます。
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