「宣教の歩み 沖縄バプテスト八十年史」の「各個教会の歩み 那覇教会」の項目を抜粋します。
那覇の街に初めてバプテスト派の伝道が始められたのは、1891(明治24)年のことである。当時アメリカ北バプテスト伝道会社から派遣された原三千之助師によって「沖縄バプテスト講習所」として開設された。場所は那覇市上之蔵の比嘉家(元第一高等女学校 比嘉初子先生宅)である。周回は比嘉家の表座敷で開かれたが、(略)
1895(明治28)年頃になって教会は久米町大通りに写り、更に湖城という旧家に移転して集会は続けられた。
1898(明治31)年頃、那覇教会第二代目牧師として迎えられたのは内田尚長牧師である。
1905(明治38)年那覇教会三代目牧師として長野県出身の原口精一師が迎えられた。那覇教会の集会には近隣の小禄、豊見城からも原口師をしたって出席する者が多く、その数は200名を越していた。その当時の集会に集った青年達の中には役者として有名な次の方々がおられた。沖縄演劇界の先駆者渡嘉敷守礼・守長兄弟、新垣松含、また女型の名優知念政達。中心的な信徒としては米田漆器店主の古賀善次や小学校長の浦崎永春等であったが、若い人々の中では西原真敏や翁長武達が献身的によく働いたものである。
那覇における宣教活動は着々と進められ、1917(大正6)年には待望の教会堂が完成するに至った。それはロマネスク様式の近代建築による教会堂で、久米人ばかりではなく、久米を通るすべての人々の目を奪うほどであった。
1919(大正8)年に原口精一師は沖縄を引き揚げられた。
第四代目那覇教会牧師として神山本淳市が就任したのは大正9[1920]年である。その後吉川亀牧師が来島し、神山牧師は解任され、(略)
照屋寛範師が那覇教会第六代牧師として迎えられたのは1927(昭和2)年である。
第二次世界大戦後の那覇教会は1954(昭和29)年3月、照屋寛範師一家が具志川市の前原より那覇市久米町の戦前の教会の敷地に移られたことにはじまる。その頃は久米町もやっと米国の軍用地から解放されたばかりで住宅も少なく、人通りも少なかった。
1957(昭和32)年には那覇市楚辺(俗称ハーバービュー)に待望の新会堂が完工した。
「宣教の歩み 沖縄バプテスト八十年史」 p216〜p219(省略抜粋、一部編集)「米田漆器店主の古賀善次」ってのはよくわかりません。古賀善次は古賀辰四郎の息子で海産物商(古賀商店)だったはずですがどこかで名前の混同が起きているものと思われます。
明治43年には西町に米田漆器製造所があり主は米田惚四郎、また米次源吉(米次漆器工場)という人もいました。
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