沖縄県史別巻の漆器産業の項目から抜出してみました。
1890(明治23)年、東京上野公園での第三回内国勧業博覧会に漆器出品
1894(明治27)年頃から本土商人が琉球漆器製造をおこなう
1902(明治35)年、首里区工業徒弟学校設立、漆工科・木工科
1919(大正8)年、那覇漆器組合設立
1927(昭和2)年、沖縄県工業指導所設置
1929(昭和4)年、若狭町木地組合結成
1931(昭和6)年、沖縄漆工芸組合紅房(生駒宏の指導)
1938(昭和13)年、琉球漆器工業組合発足(沖縄県振興計画による)
1941(昭和16)年、沖縄漆器有限会社(政府の企業統制のため)
1944(昭和19)年、1010空襲による壊滅紅房は戦前と戦後のどちらにもあるのですが「同名異質」と説明されています。
関係:
グダグダ 紅房面白いのは1941年に静岡の理研電化工業の資金提供で台湾の新竹に「理研電化工業新竹工場」が設立され、沖縄からも多数の工人が参加して琉球漆器を生産していたようです。理研ってそんなこともしてたんですね。
http://www.city.akita.akita.jp/koho/data/html/0110/0110_01_02.htm
昭和二年、沖縄県工芸指導所に技師として招かれ、伝統の沖縄漆器に新技術を加え「紅房」を設立して輸出をはかり、沖縄漆器の声価を高めた。後進の指導にも熱心で実験室を自費でつくり、美校生を呼び新分野の開拓に当った。氏の創案になる金属漆器も、この実験室から生れ、現在の工芸界の重鎮芸大の小池、福岡大の柏崎両教授をはじめ、多くの指導者を送っている。
昭和十五年、台湾新竹の理研電化に工場長として迎えられ、静岡の本社にも兼務するなど終戦まで席の温まるいとまなく研究と経営が続けられ、この間漆工芸の特許も数種にのぼつた。二十二年、理研電化の取締役に就任、現在は同社の顧問となっているが、ことし十月国連職員としてタイ国に派遣され、漆工芸の指導に当っている。親雄氏は同氏の長男で、昭和十六年東京美術学校工芸科漆工部を卒業。その後沖縄で「紅房」のデザインを担当、理研電化の工務課長として新意匠を考案するなど漆工芸の発展につとめたPR