米次源吉
生没年不詳、鹿児島生。1894(明治28)年頃寄留して米次商店を開設、漆器商として活動する。1895(明治28)年に米次漆器工場を創立し、沖縄的な特色のある漆器の製造・販売に従事する。
1910(明治43)年には27名、1916(大正5)年には本工場の他、各地に分工場を所有し、100余名の職工を使用して一ヶ月に約3200〜3300円の製品を県外に輸出するにいたった。
近代沖縄の寄留商人より抜粋太田朝敷は「今日では米次漆器店といえば、県の内外に知られた県下一流の漆器店で、随って米次翁はこの特産に対する功労者である(沖縄県政50年/1932年出版)」といっています。
米次源吉から少し時代は下りますが昭和初め頃には紅房への動きがあります。
昭和初期、沖縄県は「ソテツ地獄」とよばれた経済不況対策の一環として、県工芸指導所を立ち上げた。漆器部門の指導者として生駒宏が富山県から招かれた。(略)県外から優秀な若手デザイナーを呼び寄せ、近代的な感覚の製品開発に取り組んだ。その結果県外からの引き合いも出て来た。
それに対し、伝統的な漆器業者は民業圧迫だと騒ぎ出し、若狭町の街角に「イコマ(生駒)ではなく、悪魔だ」との張り紙をする一方、県や県議会にまで押し掛けた。
昭和6(1931)年、生駒は既存業者を排斥し、沖縄の漆器に新しい息吹を与えることを決意し「沖縄漆器工芸組合・紅房」を発足させた。そこには柏崎英助、小池岩太郎らの若手の有望な人材も加わり、現代にも通用する新しいデザインが次々と生まれ、中央でも脚光を浴びるようになった。
笑う!うちなー人物記 p193(編集と引用)昭和期相当の「わかさ民俗地図」には若狭町に漆器関連の工場があるようですがこの工場がどこのものだったのかは書かれていません。
県史とかの工芸史を調べればわかるかとは思いますが調べておりません...
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グダグダ 紅房関連:
グダグダ 漆器関係年表漆器や焼き物の発展・近代化のプロセスを自分は追えていません。
壷屋の焼き物は近年「古典焼」など多方面からの検証などがすすんでいるのですが、漆器もそういった研究があるのかもしれません(が未読)。浦添の「よのつぢ」とかで漆器についての報告がありますね。
芸術や工芸に関する報告などは技術面や影響など門外漢からはなかなか読みにくいもんがあります。
ここは素人のノート代わりの個人まとめなので、必読書を読んでいない故の間抜けな遠回りや間違い及び勘違いはふつーにあります(のでご注意)。
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