大正8年、東京女子医専を卒業後、すぐに医師試験に合格した。卒業生70余人中15人が合格した。数え年22歳。東京駿河台の杏雲堂病院に勤務、細菌学、呼吸器科、小児科を研究した。
昭和3年帰郷、28歳で那覇市役所隣で小児科[千原小児科医院]を開業した。一番近いところの内科小児科のS医師が「女子供が開業するそうだが、夜、医者は辻に行くから好都合だ」と言ったそうで、私は出鼻をくじかれた。(略)
S医師のいったことは現実となって、毎夜当番医をやったことになる。しかし、それを私は甘んじて誇りに思っていた。
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話は前後するが、私が開業する前に善興堂には、婦人科医は長田紀秀先生と仲吉先生2人で4、50人が満員。また元順病院は金城紀光先生を院長にいただいて浜松、島袋、仲地紀晃、紀彦先生がおり、外科病院としては沖縄一であったのに、数年して善興堂が分裂、そして元順の浜松、島袋先生が出て、それぞれ個人開業した。
その他に金城清松先生のところの堀口先生も個人経営となった。
カルテの余白 p150、151(省略抜粋)千原繁子さんは沖縄の女医第一号です。明治31年那覇生、戦後は昭和27年に松尾に小児科を開業、そして昭和32年に松山町に移転し復帰まで医師をされていました。
しかしさらっと怖いことも書いてあるんですよね。以下引用しますがもう誰にもわからないことでしょう。
そのうち二年間にS医師、H内科新開業の小児科医のH氏が相次いでパントポン常習者の噂で亡くなった。S医師の言動がどうも腑に落ちない点があったのは、ああそれだったのかと思い当たった。
カルテの余白 p150、151(省略抜粋)【追記】千原繁子さんの旧姓は渡嘉敷であったようです。
那覇市出身・渡嘉敷繁子は、東京女子医学専門学校に学び、医師国家試験に合格。東京在任中に千原成梧医師と結婚。千原繁子となった彼女は、昭和3年に帰郷して夫君と「千原医院」を開業。
http://sun.ap.teacup.com/ueharanaohiko/244.html那覇市史から。
「球陽座」が盛んなころ、東京留学中の安里成達、成梧(後に千原と改姓)兄弟が、東京から帰省し
那覇市史資料編第2巻 中の7 P719(抜粋)PR