船越義彰さんの「狂った季節」に那覇へ移る際のエピソードがありますので引用します。
那覇への通勤は1950年の何日まで続いたか記憶が曖昧である。稲福、大城、オヤケバル、百名、志喜屋、その他、[※民政府の]職員住宅に入っている職員の異動も始まっていた。個人的な才覚での移動であった。
そのうち民政府財政部長護得久朝章氏が管理している尚家の土地を開放して集団で住宅を建設するという構想を示された。家屋建設費は「復興金庫」つまり復金から借り、土地は借地料を払うというのである。那覇移動に踏みきれない者にとってこれ以上の朗報はなかった。私もこの住宅に入るべく手続きをした。
狂った季節 p230>民政府財政部長護得久朝章氏向家(しょうけ)の人です。
護得久御殿 - Wikipedia民政府の前身である沖縄諮詢会でも財政部長です。
沖縄諮詢会 - Wikipedia現在の三原辺りに「民政府住宅」とよばれた一帯があります。以前はタクシーなど利用する時に民政府住宅までといえば連れて行ってくれました。尚家の土地だったという話も聞いたことがあります。
ですが上記の本の記述ではその後義彰さんは七つ墓付近に引っ越しています。このあたりがどうなっているのか自分はわかっていません。
とりあえず引用しておきます。
移った場所だが今どのあたりか見当がつかない。沖映を目安にすると現在のダイエーの向かいあたりに「料亭那覇」があった。真新しい建物だったと記憶している。その近くに我那覇という鉄工所と鋳物工場があり、その真後ろの茅葺きの家が我家であった。
狂った季節 p231「現在のダイエー」はジュンク堂になっていますね。川沿いの真後ろに鉄工所が今もあります。この我那覇鉄工所は戦前の若狭町にも同じ名前がありますが同じ人がやっていたのかどうかは確認できていません。
参考:
グダグダ 上江洲フミ(料亭那覇)と思ったら民政府住宅の顛末が書かれてあるサイトがありました。このため、志喜屋知事は軍政府に民政府の早期移転を申請し、工務部は職員住宅の敷地として真和志村与儀にある農業試験場耕作地にテント175張りを建てて 350世帯分の仮住宅を建設し、8月1杯に移転する予定でしたが、敷地問題が解決せず、三原に30戸の規格住宅を建設し、移転を開始しました。
http://nemuihito.at.webry.info/201012/article_3.html義彰さんの本にもこの移転の原因となった台風の経験が書かれてあります。
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