浦添の勢理客から安謝を見た写真です。中央に安謝橋があり、手前は水田になっているようです。

この一帯を勢理客城門原と勢理客立山原と呼んでいます。


対岸の安謝と同じように川の流れが堆積して陸地化した低地です。

浦添市史に昭和11年頃おこなわれた土地改良事業についての記述がありましたので引用したいと思います。
安謝橋側の勢理客城門原・立山原の護岸は山石積みであったので、毎年潮害を受け不毛地になっていた。安和良盛村長は県耕地課に交渉し、不毛地の村有地三万坪余を土地改良事業によって水田地帯にするように願った。しかし補助金は護岸工事と水路工事費しかなく悩んだが、村議会に諮り、区長会で話し合ったら全員実現をさせようということになり、工事費は補助金で充当し、不足分は労賃で負担することになった。
それで整地事業は各字の戸数に応じて大中小にわけ割当された。各字では割当された区域を共同作業で整地作業に取り組み、鍬で掘り起しモッコでかつぎ整地に従事した。(略)護岸工事において、潮水害防止のため自由開閉扉をつけた水門を設けるとともに、悪水路を護岸内側に設けた。また水利としては、小湾川の川口に井堰を設け、その貯水池から用水路で田圃に流れるようにした。水田は一反歩単位に区画整理された。
広大な不毛地が美田と化し、浦添村で一番大きい水田地帯となった。
浦添市史第4巻資料編3 p74(省略編集)PR