経済の背景(1)のつづき。
基地経済志向の時期(1950 - 1958)
朝鮮戦争を背景とした基地工事建設ブームにより消費支出の増加(大意)
那覇市の壷屋から神里原の問屋街、平和通りの市場街も形成され、いわゆるLC族なる名称の発生をみるほど商企業は活発になったのである。百貨店は近代都市を象徴するものの一つであるが、この頃小規模ながらも神里原に現在の山形屋、リウボウなどが開店をみている。
軍工事ブームは朝鮮戦争(1950年6月/1953年7月)の終結に伴い1954年には一段落し経済はデフレ傾向を示し商業も一時不振となった。しかし1955-57年にかけて本土の神武景気の余波をうけ、いわゆるいわゆるスクラップブームとよばれるスクラップ輸出の好調や、軍用地料の値上げや援助等の基地収入の増加、また本土政府からの年金・恩給の支払い等が始まったことにより消費面は再び活気を取り戻した。
1955年にはバスターミナルが統合建設されたが、これにより交通の幹線は完全に牧志を中心とする国際通りに移転した。これに伴い商業の中心地もそれまでの壷屋・神里原一帯から国際通りに移っていった。
これは神里原・壷屋一帯がヤミ市から発展していったもので道路事情も悪く密集していったためその後経済が回復していくにつれ手狭になっていったことや、朝鮮動乱による消費景気で土台を築いた商企業がこの機会に拡張を期して移転を計画したことが原因であろう。
1954年にはリウボウが、1955年には山形屋が現在の場所に移転し、問屋街も一部は蔡温橋通りに、一部は若松通りに移転してゆく中で、一時は劇場や百貨店、専門店、飲食店などが建ち並びにぎわいを見せた神里原一帯もその後は文字通り灯りが一つ一つ消えていった。
このような政策(物品税法/1952)は国産品保護でもなく自由貿易でもない結局どっち付かずのものであり、「とりあえず島産品でまにあうものや、贅沢だと思われるものの輸入を避け、つとめてドルを節約してその分を生産原料、資材設備などの輸入に振り向けなければならない」とする政府の期待は裏目に出て、外国製時計や洋酒、外国製の缶詰・菓子類等が家庭生活に深く入り込み、結果として「奢多傾向」を助長しこれらを扱う商企業の乱立に拍車をかけたともいえよう。まず「LC族」について。貿易でいい目を見た連中のことです。
「LC 貿易」で検索してみて下さい。
山形屋は戦前からある鹿児島に本店を持つ企業でした。
戦前の1922年に開業した山形屋呉服店沖縄支店が始まり。その後、沖縄戦を経て、1950年に元社員により当時の中心地であった那覇市神原に移転。1955年には国際通り沿いに移転した。沖縄山形屋 - Wikipediaリウボウは少し複雑です。
アメリカ軍に占領された沖縄では、日本本土を含めた外国との貿易が禁止されたが、その中で唯一貿易を認められたのが、琉球列島米国軍政府の琉球貿易庁であった。
1948年に貿易庁の関係者により琉球貿易商事株式会社が設立されたがこれが同社の起源である。
貿易規制解除以降は自由な貿易が行われるようになり貿易庁は琉球政府の商工部に吸収されたが同社は解散することなくその後も事業を行い続けた。
リウボウ - Wikipedia琉球貿易商事株式会社ゆえリウボウということですな。
>問屋街も一部は蔡温橋通りに、一部は若松通りに移転この記述ですら若い人はわからないかもしれません。かつて蔡温橋のあたりにはぽつぽつと問屋っぽい建物がありましたが今はわからないですし、若松問屋街は浦添の卸団地に移転してしまっています。
戦後の琉球民政府時代、民問による自由取引きが認められるようになった昭和26年頃から、蔡温橋通りには卸売り業者が軒を並べ、商店街としての街並みが形成されてきた。
那覇市国際蔡温橋通り商店街振興組合
http://www.ocnet.or.jp/okishinren/o-kokusai-saionbasi.html>外国製時計や洋酒、外国製の缶詰・菓子類等が家庭生活に深く入り込み現在の時計店や外国菓子卸などのルーツもこの辺にあります。
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