那覇人の口の悪さは那覇人同士でもかわりません。
島袋全幸さんの「昔の那覇と私」から那覇内での各地域の呼称です。
東ボンボロー、西ハーガー、久米村(クニンダ)ビタタイ、湧田サバカチ、久茂地ヌヰー、若狭町サラグヮー、壺川ホーホー、泊マースー、垣花ヒヨー。
東ボンボローのボンボローはでんでん太鼓のこと。東道には士族くずれ牛皮細工がいて、太鼓などを張っていたからであるが、また東ン人は、シラークサー口なて(前後左右口になって=よく喋る意)ボンナイボンナイしたからでもあろう。
西ハーガーはよくわからない。(略)
久米村ビタタイは、中国渡来の衣服をビラビラと着ていた感じがでているが、唐栄の男子はみんな王朝から俸禄をいただき、パリパリ働かなくても生活ができたからでもある。
湧田には、富裕な旧家が屋根門、石垣を構えたのが多く「橋内」と誇っていたのに、それには目もくれず、湧田の先(地蔵堂の上方)に居たという、しがないサバ(草履)づくりで代表させたのが皮肉だ。
久茂地には関帝王などの軸物の絵をかいて生計をたてているのがいた。本格的な掛け絵ではなく田舎向けの安直な色彩画だった。
若狭町は挽物細工の本場で、お椀や皿小や、また木アシジャ(足駄)を作った。だから「若狭町木アシジャー」とも言った。塗り物も盛んだった。
壷川ホーホーと言うのは、南島風土記に「壺川の住民小舟を並べて唐三良(トーサンラー)辺に屯し、水道を遮って船を横たえ、上げ潮に乗って応々のかけ声勇ましく水面を叩きながら船を推して行くに、銀鱗刺々声に応じて船中に躍込む、これを壺川ホウホウと唱えたり」とある。
泊は潟原塩田を前にし、前島当たりには塩焚きの煙がほそぼそと立ちのぼっていた。
垣花は那覇港の対岸で、通堂の仲仕は垣花二才(ニーセー)たちの専売であったから「日用夫」と言ったのである。
昔の那覇と私 p52、53方言の言語感覚というか語感でことばを重ねてゆくのが結構あります(畳語)。「アマハイ クマハイ」だとか「アリン クリン」だとか「ゴーグチ ヒャーグチ」だとかそういうものです。
しかし「ボンナイ ボンナイ」はどう説明していいかわかりません...
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