
「
わかさ民俗地図」の範囲に見える鍛冶屋(カンジャー屋)です。
(1)宮城カンジャヤー、(2)我那覇鉄工所、(3)漢那カンジャー屋、(4)宮平鉄工所、右下の赤い線はミンダカリの「
カンジャースージ」でこれは那覇民俗地図を参照しています。
「沖縄の鍛冶屋/福地 曠昭」の年表から、明治から敗戦までの期間を部分抜粋します。
1908(明治41)年 工場数15(原動力を用いざる工場)
1911(明治44)年 八重山で鉄工所初め(常深熊太郎)
1924(大正13)年 ガス溶接機初めて購入(梶原鉄工所)
1925(大正14)年 首里城正殿改装用釘(宮平鉄工所)
1926(昭和1)年 ミンダカリ鍛冶屋農具制作
沖縄の鍛冶屋/福地 曠昭 p311、312続いて明治36年の鍛冶屋の分布です。
那覇区33戸(74人)、首里区23(69)
島尻郡28(44)、中頭郡37(62)、国頭郡86(120)
宮古郡7(7)、八重山郡10(20)
合計224戸(394人)
沖縄の鍛冶屋/福地 曠昭 p313久茂地ミンダカリのカンジャースージには十何軒もの鍛冶屋が軒を連ねていました。また壺川や上之屋にも鍛冶屋があったようですがこれは馬車の発着場という条件のせいかも知れません。
鍛冶屋は下働き(ふいご・鎚打ち)は妻子や弟子にやらせ、弟子は無給で最低3年くらいはふいご(フーキ)、鎚打ち(メーウチ/前打ち)をやり10年程もかかって一人前(立身小)とされたようです。脚の悪い人の就職先でもあったようでインタビューに取り上げられた人のうちにも何人かそういう人がいます。
戦中は徴用され、竹槍の先、刀作り・研ぎ、石斧、荷馬車の車輪、爆弾、手榴弾、カブトなど様々なものを作り、戦後は米軍の下で農機具等の復旧に必要なものを生産していたようです。
また前打ち工には日当で働く専門の人もいたそうです。
他に金物を扱う職業は蹄鉄師や鋳掛屋(ナービナクー)がいたようですが専門が違うためこれらの人達は重ならないようです。ナービナクーの仕事の様子は「沖縄物語/古波蔵保好」に描写されていますので興味のある方は参照してみて下さい。
「カンジャーには二種類あってミンダカリ系が農具で首里系は刃物が専門であった」(p123)
「久茂地通りに「ハンジャー・スージ」といって16軒の鍛冶屋が通りの両脇に立ち並んでいた」(p200)
「那覇には田舎から乗り入れて来る馬車の収容所が二ヶ所あった。中頭は潟原(現在の若松町)、島尻は壺川で、蹄鉄師も那覇にいた」(p227)
沖縄の鍛冶屋/福地 曠昭PR