戦後泊前島一帯は米軍部隊が駐留しており返還されるのは暫く経ってから(55年/一部52年)です。その間に泊部落にあった小さな丘は整地され前島はスクラップ等で埋め立てられました。
この前島に埋められたスクラップは朝鮮戦争時の鉄需要により掘り起こされ売却されます。沖縄全体で見ても戦後の輸出額でくず鉄は大きな割合を占めます(55年で輸出額2位)
参考:
那覇市有地/輸出品目(55年)なお南部戦線への物資集積部門も前島であり、朝鮮戦争への補給基地もこの前島にあった。朝鮮戦争(1950〜53)が終息し前島からの軍用物資は送り返されこの前島東側の柵外の久茂地川に泥土で埋め立てられるように多量に集積された。当時朝鮮戦争景気でスクラップが高騰した時代でこれらの資材を発掘するためスクラップブームを現出したのである。
前島町が米軍から返還される前の1953年頃米民政府土地課長の配慮によって金網撤去をのばし前島塩田一帯の地下埋蔵スクラップの発掘権を獲得し、スクラップ委員会を組織して統制ある発掘を行いこれらのスクラップを販売して当時の金で二百万円余の資金を造成し前島青年会館の建築造成に充当した。
泊前島誌 p41参考:
旧那覇地区の解放順序(52年まで)参考:
立ち入り制限(2)立ち入り禁止区の境界にあった柵/金網を撤去する日時をのばし、柵内に立ち入る形で前島住民(スクラップ委員会)の委託業者が撤去作業を行えるように配慮したということのようです。
泊前島誌のp421〜p431は「前島スクラップ委員会の活動」となっていて、1955年の請負業者との契約書内容等があります。地主3割、業者が7割の取り分だったようで、業者名は當銘直喜、屋宜宗一とあります。
写真は左が久茂地辺り(54年ごろ)、右が那覇市内の一号線(54年頃)だそうです。


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