新村渠(ミンダカリ)です。
とりあえず美栄橋の説明を真和志市誌から引用します。
美栄地・新地・美栄橋
久茂地の川沿いで、小字河原端(カワラバンタ)から新村渠(ミンダカリ)に至る一円の地域は、長虹堤築造後、上昇した新地である。普門地(フムンジ)潟原ともいい、又は内潟原とも唱えられていたが、享保18年(1733)内潟原の新開地を住宅地として解放したときの規模は、内潟原は久米村に属し、之を美栄地と名付け、西の海及び外潟原の南辺は那覇に属し、前島一帯の西辺りは泊に、南辺りは牧志に付属することになっていた。
(略)
美栄地という名称については、当時この地が新開地であるという意味に於いて新地(ミィヂ)と呼ばれ、好字を撰んで美栄地又は美栄地村とも呼ばれている。
(略)
尚、今の美栄橋は享保年間、新開地当時「中の橋」よりも南表東、北表東の両区域に当たるところで、この屋敷数はあわせて八十八ヶ所で却って川の西側、今の久茂地町よりも多くなっていたが、その後衰えて、真和志間切に編入されたものである。
真和志市誌 P73
1452年の長虹堤構築から300年ですっかり陸地化してしまった新村渠。
久茂地町の範囲は
この図、美栄橋は久茂地町の対岸一帯だと考えて下さい。
この図も参考になるか?
この新村渠は庶民の町であったようです。
七つ墓のある丘陵の裾あたりに美栄橋が築造されていたが、この美栄橋を渡ると、北側は埋立地の前島町、南側が久茂地町の新村渠(ミーンダカリ)で、この辺には、ウコーヤー(黒く平たい線香作り)だの表具師などが、軒をならべていた。
琉球怪談選集 沖縄文教出版 1973PR