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みなと村の範囲(原名)

戦後の一時期存在していたみなと村は那覇と真和志の一部を区域としています。

みなと村は、現在の那覇市に位置していた特別な村。
1947年5月1日に那覇市と真和志村の一部が分離して誕生した。
1950年8月1日に那覇市に編入し消滅した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/みなと村

場所はこうなっています。
那覇市のほぼ中央、那覇港と漫湖にはさまれるように位置していた。
現在の地名で言うと奥武山町・壺川・旭町・楚辺・泉崎・古波蔵の一部である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/みなと村


左の図が原名(はるなー)と町名、右が那覇市議会史に掲載されていたみなと村の範囲です(みなと村のペリー区ははみでていて表示できていません)。


みなと村内の行政区は、松尾区、美田区、楚辺一区、楚辺二区、奥武山区、ペリー区、壺川区で、設置の流れはこうなっています(みなと村のあゆみ巻末年表より)。
1947.5.1 
みなと村設置
楚辺原の一部、美武田原、長作原の一部、阿手川原、赤畑原、那覇市通堂町の一部

1948.4
真和志村の字二中前一区、松尾、県庁前、旧那覇市の上泉町を編入
総面積233234坪になる


例えば楚辺原の一部がみなと村になりますが、図示されている楚辺原のどこか一部でしかないということがわかるのではないでしょうか。
旧那覇市・真和志村(と小禄)の図。

旭町、上泉町が那覇、奥武山も那覇市通堂町になります。
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みなと村の範囲

那覇市には以前の地名とは違う区が戦後暫く存在していて旧那覇が一区から十一区、みなと村には松尾区、美田区、楚辺一区、楚辺二区、奥武山区、ペリー区、壺川区などがありました。(安里区など他にもありますがちゃんと調べられていません)。みなと村は関係者のみの地域なので通常の市民はその他の地域に居住しています。
1952年当時1〜11区の総人口は42480人、他の区が18465人の総計60945人が総人口です(出典は那覇市史通史編 p418)。
ちなみに1〜11区はこんな感じになっています。
戦後の区

みなと村の範囲については「那覇市議会史 第5巻資料編4 「議会の記録」アメリカ統治期(合併前)」という本に図が掲載されています。冒頭には凡例として以下のように述べられています。

3.口絵の那覇市、首里市、真和志市の行政区域地図は『写真でつづる那覇戦後50年』(那覇市文化曲歴史資料室)より転載。
みなと村は、戦後那覇市の一部、真和志村の一部の区域を以て設置された新しい村で行政区域の境界線については「民政府告示第18号」、『1949年みなと要覧』等を基に、関係者の証言も参考にして、当編纂室で作成した。まだ不完全な所もあり後日を期したい。
那覇市議会史 第5巻資料編4 「議会の記録」アメリカ統治期(合併前)凡例(省略と編集)


余談ですが「写真でつづる那覇戦後50年」にはみなと村は書かれていません。ですので「那覇市議会史」の図がみなと村の唯一の図になるかと思われます。
右図の川から向こう側がみなと村のペリー区です。

この時期の地図として那覇市地図(S26)がありますが自分の持っているコピーはとても見にくくて詳しくは読み取れない箇所があります。また「みなと村のあゆみ」にはみなと村の略図がありますが筆書きの粗いものです。
ちなみに「みなと村のあゆみ」は「みなと要覧」を参考にして作られたものだったかと記憶します。

【追記】「那覇市議会の歩み 通史編」(pdf)の3ページには市域地図があり、上の図で参考にしたものを見ることができます。下図はpdf中の図を切り出して縮小したもの。
正確な範囲を知りたい方は下記アドレスのpdfを参照して下さい。

http://www.gikai.city.naha.okinawa.jp/history/index.html

みなと村

みなと村は戦後復興のため一時期存在していた行政地域です。

那覇港の荷役作業を請け負っていた「那覇港湾作業隊」の労務管理を円滑にすることを目的として沖縄民政府が設置した極めて特異な自治体である。村長は那覇港湾作業隊総支配人の國場幸太郎が就任し、村職員の大半が那覇港湾作業隊の関係者で占められていた。(那覇港湾作業隊との兼務が許されていた。)

那覇市のほぼ中央、那覇港と漫湖にはさまれるように位置していた。現在の地名で言うと奥武山町・壺川・旭町・楚辺・泉崎・古波蔵の一部である。
那覇市港町は、1970年代になって付けられた町名であり、無関係である。
みなと村 - Wikipedia


2000年5月13日付け琉球新報から引用します。

「みなと村」初めて地図に/那覇市議会史 - 琉球新報
このほど発刊された那覇市議会史第五巻「アメリカ統治期(合併前)」の中で、1950年8月に那覇市に合併した「みなと村」の行政区域が初めて地図になった。(略)
「みなと村」は47年5月、戦後引き揚げたPOW(日本軍捕虜)の業務を引き継いだ民間の那覇港湾作業隊の作業能率を上げようと、沖縄民政府知事によって設置された特別な自治体。那覇市に合併されるまで3年三カ月存続した。(略)
今回、発行された議会史には那覇市とみなと村の合併、さらに真和志村との合併をめぐる白熱した審議の様子もうかがえる。50年4月にみなと村議会が那覇市への合併を全会一致で可決した後、那覇市との合併をめぐって同7月に開かれた真和志村臨時議会では、「みなと村は真和志の土地を利用した特殊区域である。(中略)…、これは真和志村を首都計画からオミットして、みなと村だけを取らんとする陰謀と考えられる。一市二村を合併し、首都建設することには賛成。ただ、みなと村だけの編入は絶対阻止すべきだ」などとする発言もあり、一市二村の合併条件として「みなと村の大半は戦前の真和志村の行政地区。みなと村の解消と同時に、旧真和志村地域は返還せられたい」などの項目が挙がっている。
琉球新報 2000.5.13


1957年に真和志市は合併消滅しますが那覇との合併を巡るゴタゴタが見えて面白いです。当時の那覇市広報の「市民の友」などを読むとその辺の駆け引きがうかがえます。
首里は地名に首里をつけることにこだわったし、地域ごとの微妙な意識の違いや、首里・那覇への(微妙な)反感ってのはなんとなく存在してますよね。
1955年のみなと村遠景。
みなと村
開南小校−ハーバービューを通して漫湖をのぞむ
※旭橋都市再開発株式会社 http://www.asahibashi.jp/area-6.htmlからお借りしています。

しかし戦後10年経った1955年でも現在の旭町周辺は市街地化してないんですよねぇ...

みなと村資料からの数字など

楚辺一区 1886 392
楚辺二区 1751 379
松尾区   515 103
壺川区  1004 205
美田区   356  82
奥武山区  438  97
ペリー区 1738 333
---
総計   7638 1591

p13の「各区別人口並ニ世帯数」からで人口、世帯数の順。
男女比は「810/941」の楚辺二区、「477/527」の壺川区のみ約10%以上男女どちらかが多い。

1948.4〜1949.3迄の結婚・離婚・出産・死亡調べ(p14)。
結婚88、離婚12。
出産(男)130、(女)140の合計270人。
死亡(男)31、(女)26の57人。

就学児童数(p16、p17)。
初等科 1010
一年から「208、206、203、167、155、153」
中学 1495
一年から「169、142、89」
高校 69
一年から「17、18、34」
幼稚園(6、7歳) 146
沖縄の団塊の世代はこの時点で未就学児童。

「過去一ヶ年段階別配給人口調べ」(p20)から1948.5と1949.4を取り出す。
1〜2歳 418 372
3〜5歳 381 517
6〜10歳 796 936
11〜20歳 912 1407
21〜60歳 1061 1480
60歳以上 279 357
---
換算人口 7009 8574
その他の項目には妊産婦、軍労務、軽労務、中労務、重労務がある。
戦後生まれに人口ピークがあるはずだけど数字からは確認できない。

p15の業務一覧表(1948.3と1949.3)から一部のみ抜粋。
民政府が25名(1949)
市町村が63(1949)
農業が20(1949)
水産業が16(1948)、74(1949)
商業が7(1948)、36(1949)
軍作業が2588(1948)、2130(1949)
圧倒的に軍関係が多い。

家畜家禽頭羽数状況調(p24)、表記は48、49年の順。
奥武山区と美田区は両年ともにヤギ豚ゼロ。
豚 21 101
ヤギ 18 28
鶏 741 1350
アヒル 32 75
兎 250 718

みなと村の出身別人口

「みなと村のあゆみ」の「各市町村出身別人口比較表」(p12)から抜粋です。
数字は「出身市町村名 | 1947.5(人)/1949.3(人)」で、総人口は47年の6469人から49年には7639人に増加しています。そして1952年になるとみなと村は18465人、(那覇)1〜11区は42480人の総計60945人が総人口です(那覇市史)。49年から52年にかけていきなり倍以上に増えていますが1948年に従来地域に加えて「真和志村の字二中前一区、松尾、県庁前、旧那覇市の上泉町を編入」したためだと思われます(みなと村のあゆみ p155)。

1947年時点で90名以上いた出身地は以下四箇所。
那覇市 | 4817/5376
首里市 | 159/161
真和志 | 418/480
中城 | 92/14
 <------急減

50〜89人までは以下六ヶ所。
知念 | 76/36
佐敷 | 68/18 <------急減
大里 | 62/38
羽地 | 67/7 <------急減
本部 | 65/32
国頭 | 56/73

著しい増加をしたのは以下十箇所。離島は程度の差はあってもだいたい増加です。
東風平 | 40/129
豊見城 | 33/241
兼城 | 4/66
三和 | 30/88
具志川 | 32/134
名護 | 7/45
今帰仁 | 12/56
久米島 | 17/149
粟国 | 14/85
宮古 | 9/41

大幅減少は以下五箇所。
羽地 | 67/7
宜野座 | 36/3
佐敷 | 68/18
中城 | 92/14
石川 | 41/5
ある程度の数が来ていて半分以下になったのは、本部、知念、大里、屋我地。

八重山は4→4で変わらず、日本人は0から5へ、大島は0から10になりました。
屋我地は7人来ていたのが0人になっている唯一の例です。
増加した久米島と粟国は那覇港から出発する離島ということが関係あるのかな?

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