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沖縄染友会

昭和12年の「日報の沖縄人名録」から「沖縄染友会」。

上ノ蔵町2ノ50/組合長 古城富太郎
天妃町2ノ24/副組合長 辻之内多吉
上ノ蔵町2ノ65/幹事 会計 中島信行
久茂地町2ノ57/幹事 瀬名波良持
天妃町3ノ1/幹事 濱崎正雄
天妃町2ノ51/井之口登助


松尾に古城京染店というのがありますが、ここは寄留商人系の人だという話をうかがったことがあります。瀬名波さん以外は内地姓で住所も上之蔵と天妃町ですので寄留商人なんでしょう。
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旭通り(52年)

左図は沖縄主要地主要商工年鑑(52年)の第三十五図から、右図は左図をグーグルマップに描き入れたもの。左図は下が北になっています。
真ん中の縦線が旭通りで、過去に取り上げたことがあります。
参考:グダグダ(β) 信興商事(旭通り)丸国周辺


1は図の下から上に向って。
上原商店、ミツワ洋裁店、やまこ商会、沖縄商会本店(角)、道をこえて富原薬店
2も下方向から。
那覇食堂、大和商会、古池商会、道をこえてマネキン美粧院(角)、一軒おいてキクヤ食堂、道をこえて前里商店

左図の中央(真ん中)の水平線は神里原大通り。
参考:グダグダ(β) 神里原大通り(52年) 2
左図の下段の水平線や三共バスについては下記記事を。
参考:グダグダ(β) 市場通り(52年) 2

Remembering Okinawaの写真。左図の中心にある神里原大通りと旭通りの交差点で、右の店が富原商店、左は「容院」と「キン」が読み取れますので「マネキン美粧院(美容院)」ではないかと思われます。
右は左写真中の横断幕を反転させたものと看板のクローズアップです。

Mosher Reid Photos - Okinawa History Page 2 of 4
http://www.rememberingokinawa.com/page/mosher_reid_2

戦前の味噌醤油組合

昭和12年の「日報の沖縄人名録」から沖縄味噌醤油醸造業組合の項。

組合長 山田親徳
---
久茂地町2ノ60/幹事 友井新太郎
垣花町1ノ13/玉城佑高
天妃町1ノ3/濱田好平
前島町2ノ90/浦崎善昌
若狭町1ノ15/与座嘉亨
久茂地町2ノ60/友井熊太郎
若狭町1ノ77/木下藤吉
西本町5ノ1/泉 長賢
東町2ノ6/宮城安一郎
上ノ蔵町1ノ52/福岡 叶
垣花町3ノ95/具志堅宗演
---
赤平町(1)、汀良町(1)。儀保町(4)、平良町(1)、大中(1)
---
真和志村字安謝1838/仲本朝夫
上ノ屋1240/浦崎善徳
日報の沖縄人名録(昭和12年) (抜粋と編集)


グダグダ(β) 濱田平畩 (寄留商人/天妃町の浜田醤油)
グダグダ(β) 木下藤吉(木下味噌醤油/木下籐吉商店) (寄留商人/若狭の木下醤油)
グダグダ(β) 赤丸宗/黒丸宗 2 (垣花で戦前具志堅味噌醤油)
グダグダ(β) 上之屋通り (通りに浦崎という醤油がある)
グダグダ(β) 統計書での醤油・味噌製造業 (明治43年の統計書)

農連前我那覇鉄工所(壺川)

まちのたね通信にある国場川埋立地(埋立前)の写真。写真中のポインタについては後述。

那覇まちのたね通信 | 都市計画/埋立前の漫湖(壺川より小禄を望む)
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=2086


米軍撮影写真と77年の空撮。

http://w3land.mlit.go.jp/cgi-bin/WebGIS2/WC_AirPhoto.cgi?IT=p&DT=n&PFN=COK-77-1&PCN=C59&IDX=7&PNO=1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18
図中のAがアカバタキー(赤畑)、Bがガーナ森、Cは奥武山です。真和志民俗地図では古波蔵交差点からAを経て橋に至る道は戦後の道路となっています。
アカバタキーが国場川に突き出した半島のような形状で、戦後の道路の内側はすべて埋立ということになりますが77年の写真では戦前の地形のおもかげが少しあります。1945年の写真でもすでに埋立が始まっていたようにも見えるんですよね...

最初の写真のクローズアップ。

看板は農連前我那覇鉄工所と読め、戦後の農連は古波蔵交差点にあります。神里原近くの農連市場はここの市場です(略して農連と言うことも多いのですが)。
鉄工所の仕事として農具の修理改造もありますからここに工場を置く理由もあります。

【追記】埋立後の写真があったので追加しておきます。

那覇まちのたね通信 | 都市計画/完成した第一次国場川の埋立地
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=2087

養蚕関係の施設

「那覇市旧跡・歴史的地名地図」と真和志民俗地図から坂下あたりの養蚕関係施設。
AとBは養蚕試験場跡(参照:那覇市旧跡・歴史的地名地図)、Cは真和志民俗地図による瑞泉社。

参考:グダグダ(β) 瑞泉社(製糸)

沖縄大百科事典から。

明治初期には、旧士族のあいだでも養蚕をするものがみられ、さらに1897(明治30)年に、沖縄県は養蚕奨励のため専任技手を農事試験場におき、また場内に桑園を設け、各町村の巡回指導などをおこない、一般への普及につとめた。
大正時代に入り、養蚕は全県下に普及し、とくに第一次世界大戦による絹糸価格の高騰と、21(大正10)年以降の糖業不振から、農家所得の安定確保をはかる手段として積極的に奨励された。28(昭和3)年沖縄県立養蚕試験場が独立、30年には蚕業取締所が設置されて、蚕糸業に関する試験研究および取締期間が整備された。(略)また「蚕糸業法」による組合製糸・瑞泉社の設立もみられ、県下の産蚕処理にあたり、原料生糸を生産した。40年には沖縄蚕業史上最高の502トンの収穫をあげ、養蚕戸数約9000戸、桑園面積1304ヘクタールとなり、重要な副業として発展した。
沖縄大百科事典(省略と抜粋)


同じ項の「原蚕飼育」から。

昭和初期の沖縄の養蚕は、種繭(春蚕、晩秋蚕)と糸繭(夏蚕、初秋蚕)の生産があったが、繭の生産量や販売価格の面から、種繭生産を中心としていた。
(略)
片倉・神栄産業・郡是・昭和・昭栄などの各製糸会社は1929(昭和4)年ごろから、那覇市に出張所を置き、31年には農林省蚕糸試験場沖縄試育所も設置され、増殖事業が開始された。(略)春・秋の種繭のころには各県の蚕業関係研究者や製造業者が来県し活況を呈していた。
原蚕飼育は分場方式がとられ、養蚕家は業者から委託された原種を飼育し、生産した繭を販売する方法であった。原蚕製造高は、37年には原蚕種が全国の12.5%、普通蚕種は1.4%で、全国でも優れていた。売上高は46万5030円、ほとんどが県外移出であった。
沖縄大百科事典(省略と抜粋)


戦前の新聞をみていると蚕関連の広告がけっこうあります。
現代では浦添市が養蚕にとりくんでますね。

製糸(グンゼ・新あやべ・片倉)

「日報の沖縄人名録(昭和12年版)」にある沖縄県蚕種業組合の組合員から3名だけ抜粋。

真和志村字安里217ノ1
片倉製糸紡績沖縄蚕種製造所 斉藤寅三
市外壷屋町206
郡是製糸那覇支所 岡野一二
那覇市牧志町2ノ295
新綾部製糸沖縄蚕種製造所 永室光蔵


図は安里の桑畑での再掲ですが、ポインタ位置の沖縄製帽は戦後割当土地制度によりここで開業して後年片倉製糸から土地を買い取ったそうです。またこの一帯は蚕用の桑畑だったとのこと。
現壷屋小は新綾部。

壺屋206はこのあたり(参照:ゼンリン地図69年版)。
この位置は戦後琉球新報(うるま新報)があったんではないかと思います。51年の地図をもとにしたではうるま新報がこのあたりにあります。

参考:グダグダ(β) 瑞泉社(製糸) (戦前の製糸業)

那覇タワー、マキシーのテナントほか(87年)

87年の那覇タワーとマキシーのテナント名です。

那覇タワー
(2F)のは歯科、スタジオNo.1/(3F)空白/(4F)ヴィクトリア/(5F)松永光新法律[事]、理容室B&B、オートクチュールオーロラ/(6F)三越呉服売場/(7F)パブマリーナ、那覇タワーホール、中華料理龍園、都/(8F)イタリアンレストラン ポポロ、ビヤガーデン ニュートーキョー
(17F)スターライト/(19F)フィジー

マキシー
(B1)ハンデーマン/(B2)ディスコ コナガーデン、ハンデーマン
(M1)ドウファミリーショップ、202、ベルジュ、サーカス、マドモアゼル、パム、龍華、ジーンズショップU、ププル、パーム
(1F)マキシム、原宿デリカ、サーカス、マリオンクレープ、アストロブティック、ギフトゲート、ロードセル、キャン、エミコ、レストランくるみ、エミコ
(2F)エンゼル、シューズライフプラザ、ヴィニー、アローアロー、クリフ、エルカ、鈴円、鈴丹、パンデーロ、クルー、プレスタ、ラムール、のは歯科、スタジオNo.1、アレンジテラス蘭
(3F)たいこ茶屋、イズナ、アメリカングラフティ、タカギ、カフェーテラス田中屋、ビックツリー、ウェストエンド、ジーニングコープ
(4F)那覇タワーランド
(5F)バザールフロアー、オーロラ、チャンピォン
(6F)マキシー管理事務所、結婚式場八雲殿、三越(呉服売場)
(7F)那覇タワーボール、フォート松田、都、マリーナ、龍園、ビューレックス杉

昭和12年の酒造業

「日報の沖縄人名録(昭和12年版)」から酒造業の項を抜粋。

久茂地町2ノ77/大城昌貞
牧志町2ノ1/宮城亀寿
垣花町1ノ24/仲村清栄
垣花町2ノ7/津波古充章
下泉町2ノ95/城間宏起
前島町2ノ165/有銘マカト 石川逢篤
高橋町1ノ22/伊佐真和
若狭町1ノ18/新里康信
前島町1ノ107/糸数元英
垣花町2ノ4/當間重民
山下町1ノ3/知念績正
松山町1ノ41/新里康毅
上泉町1ノ48/神元繁宣
---
首里金城町(4)、崎山町(16)、赤田町(9)、鳥堀町(13)、當蔵町(1)、平良町(3)
---
島尻郡真和志村識名2114/神村盛英
小禄村字小禄2、675ノ1/南陽酒造社長 平尾喜三郎
日報の沖縄人名録(昭和12年版) (抜粋と編集)


首里は省略、現那覇市では識名の神村と小禄の南陽酒造があります。そのほか本島では大里の新垣、北谷の玉那覇、名護の喜屋武、津嘉山、玉那覇があります。

参考:グダグダ(β) 神村酒造 (繁多川の跡地)
参考:グダグダ(β) 神村酒造跡 (戦後の坂下での酒造)
参考:グダグダ(β) 南陽酒造跡(小禄)

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