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国際通りの変遷

資料のご紹介。

「那覇市とその周辺の地理」関西大学地理学教室

これの五章が「国際通りにおける土産品店」となっていて、1955、69、85、95、04年の国際通りの店舗を「最寄品、買回品、飲食・娯楽、商店、その他」別に色分けした図があります。
goo辞書から。

もより‐ひん【最寄り品】/消費者が近くの小売店で頻繁に購入するような商品。食料品・日用雑貨・タバコなど
かいまわり‐ひん〔かひまはり‐〕【買(い)回り品】/消費者が価格・品質・色・デザインなどを比較検討したうえで購入する商品。婦人服・呉服・靴など。


傾向としては戦後からずっと最寄品・買回品の減少で、これはブログ内市場カテゴリでも取り上げているので実感します。土産物は外人向けと日本人向けの区別、取り扱い品目(サンゴ・洋酒・皮革製品)の変化もありますね。
これらの変化は観光政策の変化も反映しているでしょうし、関税面の影響もあります。近年では観光でのイメージ像の変化も大きいでしょう。
これらは興味深いではあるんですが、調べるには過去の観光資料をかなり読み込まないといけないはず... このへんは研究報告がでてくるのを待ちたいです(他力本願)。
観光に関するイメージ論などは多田治さんが研究されています。


以下余談として。
昔の話ですが、壮年の方に国際通りの話などを聞いたとき「あそこは昔から観光の為の通りだ」と言われることが結構ありました。今になって資料を見つつ考えてみると、あの人の話していた昔の国際通りとは60年代以降の姿だっただろうなと思われます。
戦後初期である50年代の国際通りを経験していて、しっかり記憶することのできた年齢であった年代はもはやかなりの年齢ですので、身の回りの消耗品を商っていた時代のことを聞くことはもはや困難であるわけです。
同時に平和通りなどでも小規模の日用品よろず扱いのような店舗は消えていっているわけで、これらは消費行動の変化の結果でもあるんでしょう。このへんのマチグヮー内の変化はもっと詳細に調べられてもいいんじゃないかと思います。

観光に関しては復帰前からけっこう意識されていたようで、当時の観光向けの冊子などには飲屋や土産品の案内がたくさんあります。
今となっては観光はホテル宿泊がメインなので旅館に泊まるというのは想像しにくいのですが、当時の冊子には木造の旅館が観光向け宿泊所として案内されています。少し前まであちこちにあった木造の旅館は当時は観光客も相手にしていたわけです。これらの旅館と戦後に続々とできた地方宿と怪しい旅館の区別を付けるのは難しいのですが、観光案内などで区別していくことでどうにかなるんでしょう。
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フェスティバルビル

画像は無断拝借。

右はhttp://www.pupa-hatena.com/b_log/site/2006/10/post_81.html、左は国建の記念誌pdfから切り出し。
探しても写真ないんですよね... 安藤忠雄(wikipedia)で完成当時(84年?)の建築雑誌を探さないと駄目かも。
上左画像pdfの掲載元は下記アドレスの第三章。結構面白いです。

株式会社国建|国建の半世紀
http://www.kuniken.co.jp/history/

国場幸房さんの自叙伝。

株式会社国建|沖縄ん建築紀伝
http://www.kuniken.co.jp/kenchikukiden/index.html


以下余談として。
フェスティバルビルは意欲的な建築だったようなんですが、テナントの営業内容と建物(建築家)の思想がかけ離れていたように思えます。自然の風や光を利用するというコンセプトは理解できるのですが、テナントは洋服屋さんばっかりだったので自然の風にまかせて商売というのもつらいような気がします。似たようなコンセプトで名護市庁舎がありますが市役所だと汗ばむくらいは許容範囲のはずなので、フェスティバルビルはやはり業態とのミスマッチではないかと思います(好きなんですけどね)。

名護市庁舎:http://www.city.nago.okinawa.jp/4/3557.html

自分の憶えている限りでは店舗はみんな締め切って空調をかけていましたし、雨の日などは吹き抜けから落ちてくる雨が中庭をぐしゃぐしゃに濡らし、同じ階の他の店に行くのにも軒下を歩かないと屋内なのに濡れる(笑)。台風後の屋上はグチャグチャに...
でもエスカレーターで上がってゆく時の光の柔らかさは気持ちがいいではあるんですよね。

【追記】フェスティバルビルについてまとめられたサイト(下記アドレス)があり、そこで1984(昭和59)年9月にオープンとの情報があったので新聞を確認したところ9月15日付の沖縄タイムスにオープン広告がありました。
また1996年11月に名称変更になったようです(下記サイト参照)。

http://www.zukeran.org/shin/d/2012/02/29/festival-buildings/

ハブとマングース

1951年の沖縄商工名鑑に妙な広告がありました。

那覇市国際大通り 蔡温橋北側
含毒動物園
経営 山城吉正
土曜日曜はヘビとマングースの闘技があります
海山の含毒動物其他珍しい動物貝類を揃えています 教育資料に団体学生一般の参観を期待しています


ヘビとマングースとなっていますがハブなんでしょうね。
マングースが沖縄に移入されたのは1910(明治43)年のことのようです。

日本では1910年に沖縄島へインド産(亜種H. j. auropunctatusと考えられている)の個体13-17頭が、また1979年頃に奄美大島へネズミ類やハブ駆除のために30頭が移入された。
ジャワマングース - Wikipedia

古城富太郎

昭和12年の沖縄県人事録から古城富太郎の項です。

君は古城徳三郎氏の長男にして明治5年を以て生る。明治22年亡父徳三郎氏と共に来県し那覇市に定住して染物業に従事し今日に至る。創業実に50年の歴史を有し、本県に於ける紺染業の元祖とも云ふべく、市内屈指の老舗たり、本県染色業界の改良発達亦君の苦心によって成されしもの多々あり。其功績は夙に世人の認めるところであり。今や多年の努力報ひられて家業逐年隆盛の一途を辿り、県下最大の染色工場を有して業界をリードし、更に一段の発展を期待さる。
沖縄県人事録(昭和12年) (抜粋と編集)


昭和12年の「日報の沖縄人名録」にも沖縄染友会組合長として名前があります。

上ノ蔵町2ノ50/組合長 古城富太郎
グダグダ(β) 沖縄染友会

田村金物百貨店(やまがた屋)

沖縄商工名鑑(51年版)から田村金物百貨店を抜粋。

金物 電気 機械 水道 ラジオ部分品 大工道具 日用雑貨
一般輸出入業
やまがた屋本店
田村金物百貨店
店主 田村 真
那覇市神里原通り


この田村金物百貨店は以前神里原通り風景で取り上げた写真にうつっていた店のようです。
再掲。

那覇まちのたね通信 | 那覇(平和通り)/神里原大通り(1951)
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1726


場所はみよし食堂向い(参照:沖縄主要地・主要商工年鑑51年版/第十七図表)。ここでは「田村金物百貨店」となっていて「やまがた屋」とは書かれていません。
もう少し先のほうの第十八図表には「沖縄山形屋」があります。


山形屋の社史をみてないので関係はよくわかりませんがとりあえず。

ひめゆり通り(52年)

左は沖縄主要地主要商工年鑑(52年)でのひめゆり通りの安里交差点付近(第三十八図)、右はその範囲を描いた図。左図は上下(南北)反転してますのでご注意。

まず1の区間。
沖縄写真館(角)、大洋工業所ブロック工場、謝花酒造工場、那覇瓦興行株式会社、前田木材、玉城商店、姫百合工業株式会社、喜友名時計店、興南商会
2は左側から。
照屋自転車商会(角)、朝日旅館、、脇道を入って日之丸旅館、道をこえて盛光堂書店、小浜楽器店
安里交差点にもどって大きな区画はすみよし旅館、その隣りは沖縄工務社

すみよし旅館の位置に関して第三十九図(52年版)から。

これは姫百合通りと平行する沖縄劇場通りですが、図の右上の三軒あるところは図の左からよしや旅館、すみよし旅館、沖縄工務社となっています。
この三軒はひめゆり通りから大道小学校向けへ折れてすぐにあったんではないかと思います。

沖縄劇場通り(50年代初期)

左図は沖縄主要地・主要商工年鑑(51年)の沖縄劇場通りで第二十二図表、右はその範囲の69年(ゼンリン地図による)

現在の安里駅がある箇所は69年では店が立ち並んでいます。どういうことかというと、もともと330号線は鉄道路で道路ではなく、沖縄劇場通りは安里橋からくる普通の道でした。戦後鉄道は再建されず道路になりましたが、安里交差点は変形五叉路のような形をしていたわけです。69年時点ではまだこの名残があります。

店舗名。Aは沖縄劇場、Bは沖縄バスです。
1の区間は安里交差点方向から。仲本フトン店、ピースアイスケーキ、高良商店、金城楽器店
続いて2
たからや旅館、新垣木工所、大山木工所、福島商店、旅館安里館、三楽、丸高旅館、●洋服店(●は○に清)、宮城自転車店、好乃旅館、●材木店(●は○に裕)、清好旅館、料亭美杉、料亭だるま亭、大進商会
3の区間。
石川旅館、山城商店、盛光堂書店、小浜楽器店
つづいて沖縄劇場脇にタカラケーキ、沖縄バス脇に消防車庫、琉球日報社(角)。[赤で表示]
4の区間。
料亭左馬、国吉易宿、安里橋そばの脇道に入ったところで山月旅館

このほか「沖縄劇場通り食堂案内」というのが分けられて書かれています。
1と2のある330号線側は、大入食堂、つるかめ食堂、丸八食堂、高千穂食堂、待合所食堂、日の出食堂、バス前食堂、ゆたかや食堂
反対側は丸久食堂、食堂さだえ、みはる食堂、菊の家食堂となっています。

続いて同じ範囲の52年版は店舗名のみ(第三十九、四十図)。
330号側。仲本フトン店、丸共綿花加工所、●丸玉製パン直売店、高良商店、出光工業所、さかえ食堂、三日月食堂、丸八食堂、たからや旅館、かつみ旅館、大安食堂、佐川建設事務所、丸高諸間、盛大堂薬舗、●木材商(●は○に裕)、大進商会本店、南燈食堂、だるま亭、美杉亭
反対側。小浜楽器店、いろは旅館(角)、翁長商会、沖縄劇場、さだえ食堂、いなみね美粧院、仲本グロリー洋裁店、沖バス本社、太平ホテル、みはる旅館、左馬亭、食堂田吾作、友愛タクシー、国吉簡易宿、栄楽食堂、三杉亭

終戦後の一高女

仲宗根政善さんの文を引用します。引用元を忘れてしまったのですが...

終戦直後、私はすぐ母校の跡を見にかけつけた。
学校、陸軍墓地、血清所、大道校等がブルドーザーで敷きならされて、白い石粉を敷きつめてあり、その周囲は有刺鉄線が張りめぐらされていた。西南門のあった位置に米軍の衛兵が銃をかまえて立っていた。中はドラム缶の集積所。一箇所塵捨場が掘られていて、塵を満載したトラックが往来して塵をこぼしていた。ひめゆり学園の甍の瓦一つ残さず、石垣の石のかけらもない。
やがて衛兵もいなくなり、金網の下に一輪芙蓉の花が裂いていた。校長室南側にあった心字池のやぶれがさであろう、一面に生えひろがっていた。どうして金網を破ってちん入したのか、あのご老体の富原初子先生が建てられたのである。


左図は安里駅(A)、一高女・女師(B)、陸軍墓地(C)、沖縄県血清製造所(D)で、現大道小は女子師範付属小学校です。

文中の心字池は門の近くにある青い箇所だと思われます。

この図は米軍の作戦図に加筆したものです。ちょうど陸軍墓地のあたりが丘になっているのがわかりますが現在はあとかたもありません。

仲宗根政善 略年譜
http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/nkjn/timeline.html

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