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上岡勉強堂の類焼見舞御礼広告

短いものですが記録しておきます。

謝類焼御見舞
上岡勉強堂

移転先 松下町1ノ7
琉球新報 1925(大正14)年3月25日


同日の紙面には「東町大火後/那覇署の移転に気を病む商人達/小公園設置も不可能」とあり、那覇署敷地が山形屋に65900円で落札されたことや、商店主の那覇署移転後の治安への不安などが書かれています。
他には濱田平畩の保険金領収広告(天妃町丁目3番地となっています)、飛岡材木店の罹災者向け特売広告、火災保険会社の合同広告などがあります。
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真和志間切針図

安里進さんの連載が掲載されたpdfから切り出します。
左が「真和志間切針図」、右は「琉球国惣絵図」に重ねたもの。

琉球王国の測量技術と技師たち『しまたてぃ』
http://okinawa-chousasikai.com/sima.pdf


真和志間切針図を北が上になるように回転させたもの(左)、現在の地図に針図で確認できる箇所を書入れたもの(右)。
繁多川の馬場、各部落、国場川、真珠道などが見えます。

針図の鮮明なものは「首里城研究」や「繁多川100周年記念誌 繁多川」に掲載されていたかと思います。
正確なもんですよねぇ...

西むら会館(安里)

安里十字路にあった「西むら会館」ですが、現在は道路拡張によって?取り壊されています。
当時の書籍から引用します。

経営も安定し一般需要者に認められて社業は順調に伸びてくると西むら会館設立の運びとなり、1967年5月総面積220坪に総工費19万ドルを投じて鉄筋コンクリート5階建400坪の本館(1階事務所、2階フードセンター、3・4・5階貸ホール)を新築落成した。
郷土の産品(上)/沖縄こども新聞社編(1967) (抜粋と編集)


写真が残っています。

那覇まちのたね通信 | 那覇 西むら会館前/1969年 8月10日
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=666



GoogleMapでの跡地。


関連:グダグダ(β) 西村定造

銃での狩猟

昭和2年の狩猟期解禁の記事です。

ズドンと一発・・・/銃声の響き/狩猟期解禁されて天狗連の胸高鳴る
去る15日から狩猟期解禁となつた狩猟免状の下附願は今の処県下各署を通じて少い様○○るが天狗連はそろそろ準備にとりかかつて居る猟犬の詮索やら銃の手入やらに余念がない、ズドンと一発野に山に猟を追ふまこと男性的な痛快味がある爽やかな陽を気持ちよく浴び○そよ○吹く涼風に汗ばんだ顔を撫でられつつ銃声を響かせて獲物を探す・・・ 大小天狗連の胸は手具臑ひいて胸を高鳴らせて居るであらう、数年来の不景気で金儲けにする狩猟家は逐年減少しつつあるが其の代り中産以上の者で趣味的にやる狩猟家は多くなり休日や日曜日などを利用して大方郡部の山野に出掛ける様である。
沖縄朝日新聞 1927(昭和2)年9月20日 (抜粋と編集)


狩猟についてはよくわからないのですが、記事では「金儲けにする狩猟家」とありますので換金目的で猟をしている人もいたのでしょう。
年代が離れているのであまり参考にはなりませんが明治25年の猟銃保有数は423梃(丁?)あります。

井上為一

弊店儀従来那覇市東町に於て営業致
し居り候処今般左記の場所に於て
営業開始極力勉強仕る可く候間倍旧
の御引立願上候
那覇市西本町5丁目
日本勧業銀行支店前
椿本支店
井上為一
電話407番
沖縄朝日新聞 1925(大正14)年6月10日 (抜粋と編集)


経歴などはあとで追加します。

沖縄民衆新聞の広告

電気会社に噛み付いていた小田栄(黒十字軍)の新聞のようです。
「沖縄の電気昔話」に触れている箇所がありますので検索してみて下さい。

沖縄六十万民衆の唯一の新聞
沖縄民衆新聞 月三回発行
六月一日創刊(一部五銭)
黒十字軍は根が貧乏だ だから貧乏な僕達の新聞が欲しかつた
沖縄民衆新聞が発行された、事を沖縄民衆諸君 喜んで貰い度い。
沖縄民衆新聞は民衆諸君の新聞だ。暴利暴悪会社沖電社を負かす新聞だ。
都市の人達も 七ヶ月○購買巻前金一円(郵税不要だから生れたばつかりの民衆新聞○育ててくれ沖縄民衆新聞か大きくなれば、それだけ黒十字軍は農民諸君のため○にも思うまま働かれ○のだ!沖縄民衆新聞が力を持てば貧しい沖縄の民衆が力強く戦へるのだ!!
発行所 那覇市東町4ノ27
沖縄民衆新聞社
沖縄タイムス 1928(昭和3)年6月18日(抜粋と編集)

女学生の風紀

大正9年の新聞記事を抜粋します。
自分は風紀云々よりは大正時代のデートスポット情報として読んでる訳ですが(笑)。

次第に退廃し行く女学生の風紀/待合せる女学生丘小/学校許りの罪に非ず
(前略)
而し女生徒は退散後の帰途牧志町の美栄橋附近七ヶ墓の手前にある土手で唱歌を合唱しながら男生徒の帰宅するのを待合はせる。男生徒も若し退散時間の早い場合には唱歌を合唱して女生徒の帰宅するを擁するので誰れ云ふとなく其の場所を「女学生森小」と命名した。斯くして朝の出校時には電車の乗合はせに於て、正午あとの退散時には八幡宮の森蔭や或は崇元寺の境内で落合ふ女学生と男学生の群は其の初め相互に一団となって戯れの文通をするのであるが、何時とはなしに各自相手を選んで別々に文通する事となり、日曜日になると那覇郊外○泊の崎樋川附近若しくは楚辺原共同墓地からか城岳の辺り近くは奥武山公園などに相提携して散歩することとなり夜は夜で区内下泉町付近から三重城公園及び波之上など暗くて涼しい所を集合の場所に選ぶのである。其れのみならず冬は暖かい友人の下宿屋に落合つて互に寝転びながら近頃流行り出した「恋の島」とか「夜の海原」などの唄を合唱して謡う程に大胆となり淫卑となる。けれど○以上の場所及び場合の外に男女学生の風○を○乱しおるに最も適当な機会を提供しつつある場所があるのを忘れてはならぬ。それは活動写真館である。彼の薄暗い観客席を重苦るしい人混のなかで若い男女学生が如何なる微妙な環状に捉えられながら映写される写真を外に秘密な快楽を貪りつつあるかは学校当事者は勿論生徒の父兄も推察せねばならぬ。(後略)
沖縄日日新聞 1920(大正9)年9月8日 (抜粋と編集)


大正デモクラシーの時代的なものだったんでしょうね。

平尾喜一の互選人(昭和14年)

昭和14年の新聞記事から。

渕上知事告発さる
貴族院多額納税議員選挙に際し、身は選挙長であり選挙粛正委員長であり乍ら、選挙干渉をしたといふので、那覇検事局へ告発された本県知事渕上房太郎氏の取調如何は、(中略)
本県当選多額議員平尾喜一氏(47)は選挙違反県議で強制収容中のところ罪状明白となり那覇検事局では起訴することになり、長崎控訴員検事長を経て宮城法相へ決裁を仰いでゐたが、昨日起訴の決裁があり、検事局では昨日強制期間満了と共に那覇地方裁判所予審を請求正式に起訴した。同時に平尾派に連座強制収容中の下記互選人20名も昨日正式起訴予審を請求された。
石川逢篤(42)、宮城能宏(45)、渡名喜守重(69)、安元英礪(72)、中西惣吉(61)、知念績正(52)、森永敬造(47)、尾花仲次(61)、新元亀次郎(43)、照屋清雄(42)、青山壮吉(58)、宮城安郎(43)、渡辺新次郎(65)、我喜屋良徳(46)、辰野賢造(37)、上岡作太郎(68)、若林良作(47)、伊良波長齢(43)、識名盛仁(70)、肥後熊太郎(47)
琉球新報 昭和14年9月24日/琉球新報八十年史 p198 (抜粋と編集)


自分の興味は事件ではなくて平尾派とされる互選人なんですが「上岡作太郎(68)」とあるのが興味深いです。記事は1939(昭和14)年なので逆算すると1871(明治3、4)年ごろの生まれになります。上岡氏に関しては上岡作太郎(勉強堂)を参照していただきたいのですが、ここでの上岡氏は初代ということになります。
「辰野賢造(37)」はおそらく大門前で広島屋を経営していた辰野元造(参考)で、人事録での明治36年生というのとも合います。

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