1965年に発行された具志堅宗精の自伝「なにくそやるぞ」から引用します。
そこで父祖伝来の味噌醤油業をはじめることにした。資本金は3万円(B円)、出資者は7名、資金も琉銀から各自借りて、これを出し合った。それと琉銀からの借入金275万円で、準備は完全にととのった。
場所は真和志郵便局向いの寄宮で、具志堅味噌醤油合名会社として発足した。もちろん当時は、バラックづくりの粗末なもので、従業員もわずかで細々と経営していたが、銀行借り入れの資金で51年の1月、首里寒川町の現在の所在地に木造瓦ぶき平屋104坪の本建築の工場をつくり、従業員も20名にふえた。1950年宮古知事をやめた私が社長、弟[宗発]が工場長であった。当時の醤油の年間販売高が460石、味噌は3万斤程度であった。しかし、それからは醤油の売り上げも毎年上昇して今日の基礎を築いたが、その基礎つくりに一番役立ったのは、なんといっても、私が運動した結果、53年の4月から行われた醤油の全面的な輸入禁止であった。従業員もこのころから急にふえて、もろみ室やこうじ室など工場設備をどんどんふやし、建物もスラブぶきのブロック工場にした。
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赤マルソウの製品は現在全琉需要のうち醤油がその70.8%を占め、味噌が58%を占めている。
なにくそ、やるぞ/具志堅宗精 p181、182(抜粋と編集)赤丸宗は宗精と弟の宗発、黒丸宗が兄の「宗演」です。「なにくそやるぞ」から兄の具志堅宗演の名が出てくる箇所を引用します。
私の兄の宗演(黒丸宗社長)は少年のころからおとなしく、けんかなど余り好まなかった。相手にけんかを売られても取り合おうとしなかった。
なにくそ、やるぞ/具志堅宗精 p22(抜粋と編集)性格が正反対ですが宗精のあだ名は天皇ですからね(笑)。「なにくそやるぞ」は1965年の発行ですから、当時黒丸宗が健在で宗演も黒丸宗社長職にあったことがわかります。
戦前の具志堅味噌醤油は
垣花です。そして自伝からは50年に寄宮で発足したことと発足翌年の1951年に首里寒川の工場に移っていることがわかります。しかし自伝では寄宮の黒丸宗のことに触れていませんし兄の「宗演」についてもノータッチです。
これらのことから推測してまとめると、戦後寄宮に「具志堅味噌醤油」があり、首里寒川の工場設立で宗発/宗精組が具志堅味噌醤油、寄宮の具志堅味噌醤油は「宗演」が経営し名前は黒丸宗になったということなのかもしれません。黒丸宗についての情報は探せていません。
【追記】赤丸宗のサイトに沿革がありました。
昭和25年11月3日/具志堅醤油合名会社創立
昭和30年9月3日/会社商号を具志堅みそ醤油に改める。資本金を10,000,000 B円増資。
昭和41年12月20日/会社組織を株式会社に変更し、商号を赤マルソウみそ醤油株式会社に改組。
http://www.akamarusou.co.jp/corp.html
赤丸宗は最初から「具志堅醤油合名会社」で赤丸宗というのは商標からきた通り名のようなもんでしょうか。そうなると黒丸宗はどういう名前だったのかが気になります。
サイトを参考にすると1950(昭和25)年創立で、1950年は在寄宮ですから、寄宮時代から首里の赤丸宗は連続した同じ会社ということになります。黒丸宗が分離したということになるのか?
この分裂に関してはけんかわかれの噂もありますし実際にゴタゴタしたんでしょうが関係者以外にはわかんないことなんでしょうね。
黒丸宗の位置ですが左は60年代中期の地図から、右写真は1977年の撮影(国土交通省)です。
左図の範囲等はアバウトなものです。
http://w3land.mlit.go.jp/cgi-bin/WebGIS2/WC_AirPhoto.cgi?IT=p&DT=n&PFN=COK-77-1&PCN=C59&IDX=9

上左図は60年代中期の地図にある黒丸宗(ほか)を現在の地図に書き入れたものですが、上左図から右写真への間に黒丸宗は現在の寄宮市街地分譲住宅になっています。
※1958年発行の「沖縄主要都市地図」では現寄宮市街地分譲住宅の位置に黒丸宗はあり、別ページには「本家クロマルソウ 寄宮区 HONKE KUROMARUSHO」とあります。
関連:
グダグダ(β) 垣花町 (戦前の垣花の企業名に具志堅味噌醤油)
冒頭の具志堅宗精の写真はwikimediacommonsからのものでパブリックドメイン扱いです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Sosei_Gushiken.jpgPR