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上泉町(湧田)

上泉町
古くは湧田村と称した。下泉町より高台地になって、家々は立派な石垣と屋根門(ヤージョウ)を構えていた。中でも一向宗で有名な仲尾次家をはじめ、大家旧家は、すっと後までも昔のままの姿を残していた。また、湧田瓦屋でも名が知られ、1617年に朝鮮人陶工、張献功が窯を開き、陶器造りの指導にあたったが、そののち、仲村渠致元が大改革を行い、陶器の町としても定着していた。日秀上人が地蔵堂に題して「現世安穏後世善所」といったのも、この静かな住宅街をいっているのであろう。
近くに県庁や、県立二中があったせいか、官吏や教師など勤め人が多かった。地蔵堂の坂上には牛乳屋が二件あった。「湧田ヌ先」あたりには、藺サバツクヤーや、マーミナ(もやし)、櫛、チュージナクーツクヤーがいた。他町のものがこの附近をさして俗に「湧田サバカチ」と称したが家で仕事するのが多かった。
地蔵堂の下方にあった、ウガン(勢治荒御嶽)の広場には人力車の駐車場があって、その隣りには泉崎の村学校跡の古い建物が残っていた。エーマヤード(八重山役人の宿泊所)跡の旧家も近くに残っていた。
那覇市史資料編第二巻中の7、p31、32(抜粋と編集)

那覇(東側)

湧田サバカチのサバは草履のことです。
久茂地の河原端(カーラバンタ)、譜嘉地の新村渠、湧田の先、若狭町の東より、牛マチの西側、久米村の堂小屋敷(ドウグヮーヤシキ)などは那覇の場末で細民街であった。
湧田先の草履作り、新村渠の木かんざし作りは那覇名物で、つげの木地を手頃に裂いて荒削りのままざるにいれて女客をまっていると先の鋭い切り出しで削り鮫皮で磨きをかけ、旧藩時代一本5、6文で売ったようである。
グダグダ(β) 那覇の細民

チュージナクーチュクヤー /cjuuzinakuucukujaa/
チュージナクー cjuuzinakuu(洗い粉)を作る人。主に女性の仕事だった。ワクタヌサチ 'wakutanusaci (湧田崎)の人に多く、ざるに入れて行商もしていた。

http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN51096


湧田地蔵堂は開南小学校のそばになるでしょうか。上泉は道がすっかり変わってしまっているのでおもかげはありませんが開南小学校そばで弧を描いている道あたりに地蔵堂はありました。
上泉湧田地蔵堂

参考:グダグダ(β) 那覇人気質 2 (湧田のあだ名について)
参考:グダグダ(β) もやし (上質な泉崎のもやし)
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