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長山冷凍/長山悦元

1958年の住所録から。

長山冷凍(合資会社)
仮事務所 那覇市6区18組
第一工場 久米島具志川村大田区実着
食用蛙移殖、冷凍蛙輸出、凍結蛙処理加工
輸出入通関業務、和洋小鳥卸並に販売
代表 長山悦元


6区はこのあたりです。
長山悦元の名で図書館を検索してみると「沖縄振興事業としての食用蛙/長山悦元/1957.2」という本がひっかかります。
また1926(大正15)年には沖縄でも食用蛙が扱われていたようです。

米国種の食用蛙の一匹五銭のお玉杓子を、裏の小溝に放しておいたら、三年目に東京へ十五円にうれトテも美味しかったと高貴の方からお墨付が下ったと飴ン棒の砂糖煮のような棚ぼた話しに誰も彼も稲時をやめての俄養蛙家-
滋賀県水産試験場から、その配布を受けているところが(略)沖縄、台湾等そのお玉杓子の数が、京の三十三間堂の仏の数よりも六倍も多く十八万八千五百三十六匹というドエラい頭かずだ
農家の副業に最も適する食用蛙の培養のしかた

大阪朝日新聞 1926.11.25(大正15)
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00492580&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1


もっとも沖縄では戦前から市場で蛙も扱われていましたのでそんなに驚くことではないのかもしれません。

大正5、6年頃の話だが「堂小屋敷のタンメーも時折来ていたようである。タンメーはブチグヮー(細長い竹の棒)で草むらをたたきながら大溝に沿って歩いてゆく。蛙がびっくりしてとびはねると、それをぱっと捕え腰に下げたティールにいれていた。タンメーの仕草が面白く、子供たちはタンメーの後を追っかけてあそんでいた。タンメーは安謝川まで行くと溝の反対側に回りナグモー向け(注:那覇向け)に進み蛙を捕りながら帰っていった」という。
安謝誌 p29、30

蛙は皮をはいで、もも肉2本つながった形で市場で20個くらいで3-5銭で売っていた。
カルテの余白/千原繁子 p74
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