1963年の市民の友の座談会から抜粋します。
那覇の犠牲になった真和志
[真栄田]ウルクン、ニッポンガヤー(小禄も日本ですか)という言葉(笑)はいつ頃からですか。
[長嶺]小禄に電灯がついたのは私が小学校の頃で、小禄に、真つ先についたものだから、それから先でしょう。
[徳田]では翁長さん、古い時代の真和志について…。
[翁長]私が役所にタッチするようになったのは最近ですが、若い頃の記憶からすると、純粋のマージンチュは安謝、安里、松川、与儀、古波蔵、上間、識名、国場ですね。中央部は全部寄留民でした。
[徳田]なにか真和志の特徴といったものは?
[翁長]首里でもない、那覇でもない。両方あわせて二で割ったようなもの、しいていえば真和志の特徴- そういうことがいえますよ。那覇の発展は、真和志の衰亡史であると、つまり那覇の発展を語ることは、真和志の衰亡を語るようなものですよ。首里には誇りがあるが、真和志にはない。性格的には中性無煙みたいなものですよ(笑)。
[徳田]ケムリもたたなかったんじゃないですか(笑)。
市民の友1963年6月15日 第154号(一部編集)座談会ででてきたた真和志の部落をマッピングしました。

これまでグダグダと書いてきたようなことはこれくらいの年代の方にはあたりまえのことなんですよね。「
安謝、安里、松川、与儀、古波蔵、上間、識名、国場」が古い集落でその近辺に屋取などができていったわけです。真嘉比が抜けてますけどもどうなんでしょうか。
図にしてみると「真和志」という統一性がないのは必然であっただろうなと思われます。
それぞれの部落から那覇へ商売にゆくというなら真和志北部と南部の間の交通はさほど必要とされないわけです。
部落をそれぞれ書いてみると城岳周辺の楚辺には那覇からの寄留民、壺川には地方や那覇の人達、繁多川には首里系屋取、銘苅は安謝から分かれていて首里系の屋取、古島は真嘉比から分かれていて首里系屋取、大道は安里から分かれていて首里系屋取等々です。
道路ができて人が集まって来たのは上之屋、壺川、大道周辺、開南近辺(学校が出来た)です。
明治から沖縄戦まではけっこう長い期間なわけで、簡単にざっと言い尽くせるもんではないですが、ゆっくり追っかけてゆきたいと思います。
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